【ウィーン国立歌劇場】 もっと知りたい!歌手紹介① 

インタビュー・レポート 2016年8月29日 19:21

今秋の来日公演に登場するのは、選りすぐりの歌手たちです。音楽評論家の奥田佳道さんに、まず「ナクソス島のアリアドネ」に出演する歌手4人を紹介していただきました。



グン=ブリット・バークミン Gun-Brit Barkmin
(「ナクソス島のアリアドネ」プリマドンナ/アリアドネ役)

抜群のステージ・プレゼンスを誇るR.シュトラウスのスペシャリスト


Barkmin (c) Florian Kalotay.jpg 抜群のステージ・プレゼンスを誇るドイツのソプラノで、とくに「ナクソス島のアリアドネ」のアリアドネと「サロメ」のタイトルロールは「今、彼女しかいないのではないか」と評しても過言ではないほど素晴らしい。「サロメ」は4年前のウィーン国立歌劇場日本公演と、2014年春のネルソンス指揮ウィーン・フィル・カーネギーホール定期でも歌っている。
 1998年以降、ドイツのフライブルク歌劇場やザールブリュッケンの州立歌劇場に所属し、ベルリンのコーミッシェオーパーの若きスターでもあったグン=ブリット・バークミンの名前が世界に響いたのは2010年、チューリヒで「サロメ」を演じた時だった。
「魔笛」のパミーナや「ボエーム」のミミ、「ファルスタッフ」のアリーチェ、「こうもり」のロザリンデ、あるいは「ホフマン物語」のアントニアを主なレパートリーにしていた彼女の声が、リヒャルト・シュトラウスにも相応しいと最初に見抜いたのは、練達の名匠ドホナーニとチューリヒ歌劇場の支配人だったペレイラだった。実はバークミンは「イェヌーファ」や「ヴォツェック」のマリー、それにライマンも得意だった。
 ドイツ北部の街ロストック出身。ドレスデンのカール・マリア・フォン・ウェーバー大学で学んだ後、前述のようにコーミッシェオーパーで活躍、レパートリーを広げた。ハリー・クプファーが彼女の歌と演技を高く評価したのだ。
R.シュトラウスのスペシャリストとして名高いが、ワーグナー、ヤナーチェク、ベルク、それにブリテンも十八番。2016/17年のシーズンはウィーン国立歌劇場のほか、チューリヒで「ムツェンスクのマクベス夫人」を、パリ国立歌劇場へのデビューで「ヴォツェック」のマリーを歌うほか、初のイゾルデ役(グラーツ歌劇場)も控える。
ちなみに日本デビューは2005年4月。愛知万博での沼尻竜典指揮、特別編成のオーケストラとコーラスによるシェーンベルク「グレの歌」のトーヴェ。


文:奥田佳道(音楽評論家)


photo:Florian Kalotay


ウィーン国立歌劇場 第2次発売 9月3日(土)10時より!

公演関連情報 2016年8月26日 17:10

9月3日(土)10時より、ウィーン国立歌劇場の第2次発売を開始します。
今回の第2次発売では、関係者席(S~B席)の一部を開放し、NBSチケットセンターと各前売所にて発売いたします。現在満席となっております公演日・席種についても改めて発売いたしますので、ぜひこの機会をご利用ください。
NBSチケットセンター 03-3791-8888

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前売所

●e+(イープラス)
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0570-06-9993 eコード:021910/音声応答
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●ローソンチケット
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※ローソン・ミニストップ店頭 Loppi
0570-084-003 Lコード::32311/音声対応




ウィーン国立歌劇場2016年日本公演 もっと知りたい!聴きどころ③「ナクソス島のアリアドネ」


今秋の来日公演で上演される3作は、ウィーン国立歌劇場が威信をかけてもってくる名作。音楽ジャーナリスト・音楽評論家の林田直樹さんに聴きどころを中心に各作品の魅力を解説していただきました。洒脱で読み応えたっぷりの聴きどころ解説。ぜひご一読ください。


演劇好きの大人の女性にこそ知って欲しい、
「ばらの騎士」のさらにその先の世界~「ナクソス島のアリアドネ」



林田直樹(音楽ジャーナリスト・評論家)



オペラと演劇が高度に融合し、別々の状態であるときよりも、何倍も輝くこと。
この大きな夢は、モンテヴェルディの時代からワーグナーの楽劇に至るまで、多くの天才たちが追い求めてきたものだ。
20世紀はじめには、この夢を共に抱いた作曲家リヒャルト・シュトラウスと詩人フーゴー・フォン・ホフマンスタールの二人が、世にも大胆な実験を企て、洗練の極致のような作品を作り上げた――それが「ナクソス島のアリアドネ」である。

このオペラは、それまでに書かれたどんなオペラとも似ていない。
舞台は「序幕」と「オペラ」の二部構成。
「序幕」はほとんど演劇そのもので、いわば楽屋ネタである。作曲家、音楽教師、オペラ歌手、喜劇役者、舞踊家、スタッフ、プロデューサー、スポンサーらが入り混じって、舞台を上演する前の作り手たちのいざこざが、コミカルに描かれている。
歌い語りによる会話で進行するこの「序幕」を、リヒャルト・シュトラウスは自らの作風転換の決定的な契機とみなしていた。
「もう二度とワーグナー風の猪突猛進型の音楽には戻らない」と後日シュトラウスはホフマンスタールへの手紙で書いている。それくらい重要なターニングポイントだった。

この「序幕」では、かなり辛辣かつユーモラスに、オペラ上演をめぐる状況が皮肉られている。自分の出番のアリアだけが大事なプリマドンナとテノール歌手、いかにも深刻な悲劇を上位に置き、肩の凝らないわかりやすい喜劇を見下す作曲家、作り手のプライドを粉々にするスポンサーとプロデューサーの意向、等々。
いったい旋律はどうなるのか? 音楽は優先されるのか? この現代において?
いまなお新しい大問題が提起され、作曲家が頭を抱える様子までが描かれる。

要するに楽屋ネタ、というと言葉は悪いかもしれないが、シュトラウスにおける楽屋ネタは、おそらくこの世で最も洗練された、洒落た出し物の一つでもある。なぜならこれは――音楽こそ、芸術こそ、人生でもっとも大切なものだと思っている人に向けてこそ作られた、思わず微笑まずにはいられない自虐ネタなのだから。

「序幕」の主人公は作曲家である。冒頭の勇ましい序曲は、若々しい作曲家の肖像画。自分のオペラに深遠な象徴を重ね、一途に真面目な悲劇を志している。そこに突如主催者兼スポンサーから無理難題が押しつけられる。別々に予定されていたはずの喜劇と悲劇を、あえて一緒に上演せよというのだ。そんなことできるわけない! 一同は大混乱に陥る。
シリアスなものと、コメディなものとを、同居させる――この困難なテーマこそが、かえって舞台の可能性に新しい光明を与える、というのが「序幕」のミソである。

そのカギは、喜劇役者で蓮っ葉女(コケットを日本語に訳すとこうなる)の役どころのツェルビネッタにある。
いつもは元気で明るくて何も考えていなさそうな尻軽女キャラクターのツェルビネッタが、「本当は一人ぼっちでいつも寂しいの。変わらぬ愛を一生捧げられる男の人を求めているの」と本心を打ち明け、人生の真のかけがえのない時について語りはじめたときに、作曲家のインスピレーションに火がつくのだ。
それは恋の予感にも似た、理解と啓示の瞬間である。

それにしてもこの「序幕」、あらゆる演技と会話、シーンの変化、人物の出入り、それらすべてに、歌とオーケストラが機敏に対応している。何もかもが絶えず動き続け、陶酔は長引かず、常に身を翻す。こんなに運動神経のすばしこいオペラがあっただろうか? 旧来のオペラの形式であるレチタティーヴォ・セッコを継承しているとはいえ、これはもっと自由で精巧な、新しい何かである。「ばらの騎士」には確かにそれが予感されていたが、「ナクソス島のアリアドネ」では響きはずっとスリムになり、透明感を帯びた軽いものになっている。これはもう、音による芝居の"演出"そのものとなっている。
「ナクソス島のアリアドネ」の真の実験性は、この点にこそ発揮されている。

「序幕」で湧き起こった興味津々たる無理難題――喜劇が悲劇に乱入したらどうなるか、実際にやってみようじゃないか――に対応するのが、二部構成の後半の「オペラ」である。
ここで時間の流れは一変する。言葉の応酬が中心で、変わり身の早い芝居だった「序幕」とは違い、「オペラ」では古代の架空の孤島を舞台に、シュトラウス得意のとろけるように甘い旋律が、アリアが、継ぎ目のない演劇的な流れの中でゆったりと繰り出される。
確かに喜劇は悲劇に乱入する。けれど、お互いはお互いを引き立てあい、コントラストによって輝きあっている。モーツァルトとブラームスとワーグナーの精神を継承したシュトラウスが、さらにその先を目指しながらも、ドイツ・ロマン派の終わりを予感しつつ切り拓いた新境地がここにはある。それは、最晩年の「カプリッチョ」や「四つの最後の歌」へとまっすぐにつながっていく、諦念とあこがれを秘めた、夕映えのような美しさ――これは、「ばらの騎士」のその先の世界なのだ。

ここで、二人のヒロインの興味深い対照についてぜひ書いておきたい。

王女アリアドネは、花嫁になりそこね、見捨てられ、置き去りにされ、心乱れ、孤独のうちにナクソス島でただ一人、死を願っている。悲しみのあまり、もはや狂いかけている、哀れな存在である。悲劇のアリアドネには、ただひとつの誠実な愛を貫くか、さもなくば死かの二者択一しかない。望みを失った彼女は、もはや煩わしい生をとりあげてくれる死の到来を待ち望んでいる...。

そこへ道化の仲間たちと一緒に登場するツェルビネッタは、コケティッシュで浮気性の女である。あなた一筋と思っていても、彼をどこかで裏切ってしまう。それなのに彼が好き。気は確かなつもりでいても、どうしてもたくさんの男たちに気移りしてしまう。もう、自分で自分の心がわからない。憎んでも憎み切れないくらい男に苦しめられてきたが、それでも、男にぞっとする一方で、うっとりする気持ちも募ってしまう...。

――どんな女性の心の中にも、アリアドネとツェルビネッタの両方が住んでいるのではないだろうか? 潔癖すぎて生きていくのが不器用な女と、したたかなようだけど自分で自分がよくわからない分裂的な女と。
これは現代にもそのまま通用する、普遍性のある二人の女性像なのだ。

二人にはオペラ史上屈指の素晴らしいアリアが与えられている。
アリアドネが歌うアリア「すべてのものが清らかな国がある」は、シュトラウスらしい息の長い甘美なメロディを堪能できる名曲。ツェルビネッタが歌うアリア「偉大なる王女様」は、コロラトゥーラ・ソプラノの超絶技巧を駆使した難曲で、シュトラウス会心の作。

最期、アリアドネには突然救いがもたらされる。待ちかねた死の使いのようにして現れた男は、実はバッカスであった。彼は苦悩ではなく愉悦へと誘う魔法の言葉を語り、新しい生の始まりを語る存在であった。
バッカスのワーグナー風の英雄的な声と、3人のニンフのうっとりとしたようなハーモニーとの掛け合いも、不思議な美しさのある聴きどころである。すべてを委ねたくなるような新しい神の到来、すべてを変化させてしまう深い歓びがもたらされ、アリアドネとバッカスは神秘的で甘い抱擁のうちに幕となる。

シュトラウスとホフマンスタールの二人は、この「オペラ」を演劇との融合のうちに、象徴的なドラマとして、すべての孤独な女性への親愛なメッセージとしても書いたのだと思う。
演劇好きの大人の女性にこそ、「ナクソス島のアリアドネ」をお薦めするゆえんである。


ミヒャエラ・シュースター、フリッカ役を語る【動画】/ウィーン国立歌劇場「ワルキューレ」

インタビュー・レポート 2016年6月 3日 18:31


今秋の日本公演、ワーグナー「ワルキューレ」にフリッカ役で出演するミヒャエラ・シュースターのインタビュー動画が届きました。シュースターはウィーンで何度もこの役を歌っており、「強い女性のイメージが強いフリッカには、ロマンティックな面もあり、だからこそ夫ヴォータンに対するさまざまな感情を示すことが重要」だと語ります。今秋の公演をお見逃しなく!


 

 

 

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ミヒャエラ・シュースター(フリッカ)とトマス・コニエチュニー(ヴォータン)

Photo:Wiener Staatsoper/Michael Poehn


公演情報はこちら>>

 


 


ウィーン国立歌劇場2016年日本公演 もっと知りたい!聴きどころ②「ワルキューレ」



今秋の来日公演で上演される3作は、ウィーン国立歌劇場が威信をかけてもってくる名作。音楽ジャーナリスト・音楽評論家の林田直樹さんに聴きどころを中心に各作品の魅力を解説していただきました。洒脱で読み応えたっぷりの聴きどころ解説。ぜひご一読ください。


"まなざし"と"春"と"愛"についてのオペラ~「ワルキューレ」

林田直樹(音楽ジャーナリスト・評論家)


世界を支配する力を持つ指環をめぐり神々や小人族や巨人族らが争う神話的なドラマ「ニーベルングの指環」は、リヒャルト・ワーグナー(1813-83)がライフワークとして心血を注いだ西洋音楽史上最大規模の4部作オペラであり、クラシック音楽のみならずヨーロッパ文化全般に関心ある人なら一度は触れてみたい、総合芸術の頂点である。
近年はゲームやマンガの題材とされるなど、サブカルチャーのルーツともなっており、ただ神話的世界というよりは、現代にもじゅうぶん新しい意味をもちうる普遍的なドラマと言えるだろう。

「ワルキューレ」は、この「指環」(ラインの黄金、ワルキューレ、ジークフリート、神々の黄昏)の中の第2作目に相当する。最も親しみやすい、ロマンティックな作品であることから、上演頻度も多く、ワーグナーの全作品の中でも中核的な位置を占める。

ワーグナーのオペラは、1曲アリアが終わるごとに拍手が入る従来のオペラとは異なり、途切れることなくずっと音楽が続く。ドラマの世界に深く入り込むことができるのが特徴だ。
オペラは歌手が大事とよく言われるが、ワーグナーに関する限り、主役はオーケストラだ。登場人物たちの心の動きや背景、ときには深層を暗示し、ドラマの情動を雄弁に伝える役目を果たしている。
ワーグナーの世界は、そうした音楽の響きだけに浸っていてももちろん楽しめるが、台本(ワーグナー自身が執筆した)を読み、言葉に注目してみることで、いっそう味わいが深まってくる。

ここでは、あくまでひとつの平易な切り口として、「ワルキューレ」をより楽しむためのキーワードをいくつか挙げてみたい。

まず第一に "まなざし"である。
「ワルキューレ」では、奇妙なくらいに"まなざし"について多くのことが語られている。

「夜の闇がこのまぶたを覆っていたが、あのとき彼女のまなざしの輝きが僕に触れ、暖かさと昼の光を僕は受け取った」(ジークムント、第1幕)
「憧れに満ちた深い悲しみと、同時に涙と慰めを呼び起こす深いまなざし」(ジークリンデ、第1幕)
「この輝く二つの瞳(まなざし)は、いつも微笑みつつ、わしはいつも楽しんだものだった。この二つの眼の星は、幸せきわまりない男に輝け!」(ヴォータン、第3幕)

「見る」「見つめる」という行為に対して、どれほど私たちは日頃大切に考えているだろうか?と自問したくなるほど、ワーグナーのオペラでは"まなざし"が重視される。とりわけ「ワルキューレ」はそうなのだ。

第1幕冒頭、嵐の中を傷を負って迷い込んできた一人の男ジークムントと、彼を家に迎えた囚われの女ジークリンデ。二人の間で起きた反応は、まさに"まなざし"のドラマである。親切に水を与えてくれたジークリンデにジークムントは感謝してこう言う。
「勇気はよみがえり、この眼はあなたを見ることの喜びに浸っています...」。

そのときのチェロのソロの何と静かで美しいことだろう。
ワーグナーというと重厚長大な迫力ということがよく言われるが、実はこうした抒情的な情景の音楽こそ素晴らしい。
ここでジークムントとジークリンデは見つめ合い、瞬時に理解し合う。運命的なつながりを。お互いがお互いに似ていることを。二人ともどれほど苦しくつらい孤独な日々を過ごしてきたかを。
二人は離れ離れになった兄妹であることを知らずに、少しずつ、ずっと昔からお互いを知っていたような気持ちになってくる。それは男女の愛へと高まっていく。

「あなたをずっと昔から知っていたように思います」

いい響きのする、素敵な言葉である。
恋に落ちた人の多くが、運命的な出会いを感じたとき、そういう感覚にとらわれるのではないだろうか?
この言葉も、「ニーベルングの指環」には何度か出てくる。
本当は物語上の伏線があるのだけれど、本人はそれに気づかない。

ジークリンデはジークムントをこう呼ぶ――あなたは「神聖な友」であり、「春」です、と。
悲しみに満ちた女性が、みるみる喜びにあふれた女性へと変わっていく。
かつて泣きながら失ったものを、彼は取り戻してくれる人なのだ。
冬の嵐から、春の訪れへ――。この感激的な調べのうちに、ある愛の結びつきが実現する。これはただの恋ではない。神聖な友人どうしであり、兄と妹であると同時に、花婿と花嫁でもあるような、奇跡的な男女の愛なのだ。
第1幕の終わり近くでジークムントによって歌われる「冬の嵐は過ぎ去り」は、そんな熱い愛の歌だ。

そもそもワーグナーのオペラ全般において、「春」の訪れには大きな価値が置かれている。それはロマン派の本質ともつながっている。ジークムントを"春"そのものとしてとらえることもまた、このオペラの大切なポイントである。
第二のキーワードは"春"なのである。

だが、誰もが感情移入しやすい第1幕のこのロマンティックなドラマが、すべての観客にいざなうのは、結果として近親相姦というタブーを犯す愛である。

愛が法を超えること。
どんなに強大な権威や命令や普遍的な法よりも、愛に最高の価値を置くこと。
これもまた、「ワルキューレ」の重要なテーマである。
第三のキーワードは"愛"としておこう。ただしこの愛は両刃の剣である。
人を高貴で勇敢で自由にするけれど、重い報いも受けるかもしれない。

第2幕では、神々の天上の城ヴァルハラに舞台は移る。下界で起きていた一部始終について、結婚の女神フリッカが夫である主神ヴォータンに抗議する。身の毛もよだつ近親相姦をあなたは肯定するのか、と。
第1幕で起きた出来事は、ヴォータンの意図が背後に働いていたのだが、結局ヴォータンはフリッカに言い負かされ、ジークムントの死を決断する羽目になる。
このときの二人のやり取りで発されるヴォータンの言葉は、じつに興味深い。

「お前は決して認識できない――それが明るみに出る前には。ふだん慣れ親しんでいることだけをお前は理解しようとする。しかし私の心は、今まで起こったことがないことに向いているのだ。
...一人の英雄が必要だ。神々の保護を必要とせず、神々の掟にとらわれない男が。神々にとって必要であるが、神々ができない行為を彼はできるのだ」(ヴォータン)

神々の長であり、契約をつかさどる主神ヴォータンが、神々の世界を滅亡から救うために、慣れ親しんでいない、前例のない不確定な未来を求めており、掟にとらわれない自由な英雄を必要としている――ここに指環4部作のドラマの根幹が凝縮されている。

ヴォータンの娘であり、ワルキューレ(戦乙女として戦場で倒れた英雄を、天上のヴァルハラの城へと連れて行く)の一人であるブリュンヒルデが、父の命令に背いてまでもジークムントとジークリンデを守る決断をする第2幕後半は、指環4部作全体の劇的転換点である。

最初ブリュンヒルデは、ただ父の命令を実行するだけの「死の使者」としてジークムントの前に現れる。が、ジークムントのひたむきな愛に打たれて心変わりし、絶対的な父の権威、神の意志と予定に背いてまでも、自分の意志で行動することを選び取る。
燃えるような愛が、それまで冷たかった他人の行動や生き方にまで影響を及ぼし、根底から変えてしまう――驚くべき瞬間である。
言い方を変えるなら、この瞬間、ブリュンヒルデは、ただの従順な出来の良い娘から、父が心の奥底で願っていた通りの、自ら考え自由に行動する主体へと変化したのだ。

当然、父ヴォータンは激怒する。それを望んでいたくせに、自分のコントロール下から脱した娘に対する父の最初の感情は怒りである。だがやがてその怒りは収まり、親の手から離れていく娘に対する慈しみの感情が湧き上がってくる。
あの有名な「ワルキューレの騎行」に始まる第3幕のテーマはこれである。

ほとんど家族劇といってもいいこの第3幕には、ワーグナーの全作品中、もっとも熱く美しい抱擁の一つがある。幕切れのクライマックス「ヴォータンの別れと魔の炎の音楽」は、冷厳な怒りが消え、ついには父としての娘への優しい思いやりがほとばしり出る、そして娘が感謝のうちに思い切り甘える――夢の中の理想の父娘の抱擁である。

ここでやはり"まなざし"は重要なキーワードとなっている。
再度掲げよう。

「この輝く二つの瞳(まなざし)は、いつも微笑みつつ、わしはいつも楽しんだものだった。この二つの眼の星は、幸せきわまりない男に輝け!」(ヴォータン、第3幕)

ここで、炎の中で眠るブリュンヒルデを覚ましにやってくる英雄ジークフリートの存在が予感されている――美しい言葉である。

ワーグナーの音楽の中には、こうした眼の輝きそのものが、響きのなかに溶け込んでいる。まなざし――見る行為――は、私たちの人生において、もっとも大切な価値である。
そんなことを思いながら「ワルキューレ」を楽しんでみてはいかがだろうか。


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