ウィーン国立歌劇場2016年日本公演 もっと知りたい!聴きどころ②「ワルキューレ」


今秋の来日公演で上演される3作は、ウィーン国立歌劇場が威信をかけてもってくる名作。音楽ジャーナリスト・音楽評論家の林田直樹さんに聴きどころを中心に各作品の魅力を解説していただきました。洒脱で読み応えたっぷりの聴きどころ解説。ぜひご一読ください。


"まなざし"と"春"と"愛"についてのオペラ~「ワルキューレ」

林田直樹(音楽ジャーナリスト・評論家)


世界を支配する力を持つ指環をめぐり神々や小人族や巨人族らが争う神話的なドラマ「ニーベルングの指環」は、リヒャルト・ワーグナー(1813-83)がライフワークとして心血を注いだ西洋音楽史上最大規模の4部作オペラであり、クラシック音楽のみならずヨーロッパ文化全般に関心ある人なら一度は触れてみたい、総合芸術の頂点である。
近年はゲームやマンガの題材とされるなど、サブカルチャーのルーツともなっており、ただ神話的世界というよりは、現代にもじゅうぶん新しい意味をもちうる普遍的なドラマと言えるだろう。

「ワルキューレ」は、この「指環」(ラインの黄金、ワルキューレ、ジークフリート、神々の黄昏)の中の第2作目に相当する。最も親しみやすい、ロマンティックな作品であることから、上演頻度も多く、ワーグナーの全作品の中でも中核的な位置を占める。

ワーグナーのオペラは、1曲アリアが終わるごとに拍手が入る従来のオペラとは異なり、途切れることなくずっと音楽が続く。ドラマの世界に深く入り込むことができるのが特徴だ。
オペラは歌手が大事とよく言われるが、ワーグナーに関する限り、主役はオーケストラだ。登場人物たちの心の動きや背景、ときには深層を暗示し、ドラマの情動を雄弁に伝える役目を果たしている。
ワーグナーの世界は、そうした音楽の響きだけに浸っていてももちろん楽しめるが、台本(ワーグナー自身が執筆した)を読み、言葉に注目してみることで、いっそう味わいが深まってくる。

ここでは、あくまでひとつの平易な切り口として、「ワルキューレ」をより楽しむためのキーワードをいくつか挙げてみたい。

まず第一に "まなざし"である。
「ワルキューレ」では、奇妙なくらいに"まなざし"について多くのことが語られている。

「夜の闇がこのまぶたを覆っていたが、あのとき彼女のまなざしの輝きが僕に触れ、暖かさと昼の光を僕は受け取った」(ジークムント、第1幕)
「憧れに満ちた深い悲しみと、同時に涙と慰めを呼び起こす深いまなざし」(ジークリンデ、第1幕)
「この輝く二つの瞳(まなざし)は、いつも微笑みつつ、わしはいつも楽しんだものだった。この二つの眼の星は、幸せきわまりない男に輝け!」(ヴォータン、第3幕)

「見る」「見つめる」という行為に対して、どれほど私たちは日頃大切に考えているだろうか?と自問したくなるほど、ワーグナーのオペラでは"まなざし"が重視される。とりわけ「ワルキューレ」はそうなのだ。

第1幕冒頭、嵐の中を傷を負って迷い込んできた一人の男ジークムントと、彼を家に迎えた囚われの女ジークリンデ。二人の間で起きた反応は、まさに"まなざし"のドラマである。親切に水を与えてくれたジークリンデにジークムントは感謝してこう言う。
「勇気はよみがえり、この眼はあなたを見ることの喜びに浸っています...」。

そのときのチェロのソロの何と静かで美しいことだろう。
ワーグナーというと重厚長大な迫力ということがよく言われるが、実はこうした抒情的な情景の音楽こそ素晴らしい。
ここでジークムントとジークリンデは見つめ合い、瞬時に理解し合う。運命的なつながりを。お互いがお互いに似ていることを。二人ともどれほど苦しくつらい孤独な日々を過ごしてきたかを。
二人は離れ離れになった兄妹であることを知らずに、少しずつ、ずっと昔からお互いを知っていたような気持ちになってくる。それは男女の愛へと高まっていく。

「あなたをずっと昔から知っていたように思います」

いい響きのする、素敵な言葉である。
恋に落ちた人の多くが、運命的な出会いを感じたとき、そういう感覚にとらわれるのではないだろうか?
この言葉も、「ニーベルングの指環」には何度か出てくる。
本当は物語上の伏線があるのだけれど、本人はそれに気づかない。

ジークリンデはジークムントをこう呼ぶ――あなたは「神聖な友」であり、「春」です、と。
悲しみに満ちた女性が、みるみる喜びにあふれた女性へと変わっていく。
かつて泣きながら失ったものを、彼は取り戻してくれる人なのだ。
冬の嵐から、春の訪れへ――。この感激的な調べのうちに、ある愛の結びつきが実現する。これはただの恋ではない。神聖な友人どうしであり、兄と妹であると同時に、花婿と花嫁でもあるような、奇跡的な男女の愛なのだ。
第1幕の終わり近くでジークムントによって歌われる「冬の嵐は過ぎ去り」は、そんな熱い愛の歌だ。

そもそもワーグナーのオペラ全般において、「春」の訪れには大きな価値が置かれている。それはロマン派の本質ともつながっている。ジークムントを"春"そのものとしてとらえることもまた、このオペラの大切なポイントである。
第二のキーワードは"春"なのである。

だが、誰もが感情移入しやすい第1幕のこのロマンティックなドラマが、すべての観客にいざなうのは、結果として近親相姦というタブーを犯す愛である。

愛が法を超えること。
どんなに強大な権威や命令や普遍的な法よりも、愛に最高の価値を置くこと。
これもまた、「ワルキューレ」の重要なテーマである。
第三のキーワードは"愛"としておこう。ただしこの愛は両刃の剣である。
人を高貴で勇敢で自由にするけれど、重い報いも受けるかもしれない。

第2幕では、神々の天上の城ヴァルハラに舞台は移る。下界で起きていた一部始終について、結婚の女神フリッカが夫である主神ヴォータンに抗議する。身の毛もよだつ近親相姦をあなたは肯定するのか、と。
第1幕で起きた出来事は、ヴォータンの意図が背後に働いていたのだが、結局ヴォータンはフリッカに言い負かされ、ジークムントの死を決断する羽目になる。
このときの二人のやり取りで発されるヴォータンの言葉は、じつに興味深い。

「お前は決して認識できない――それが明るみに出る前には。ふだん慣れ親しんでいることだけをお前は理解しようとする。しかし私の心は、今まで起こったことがないことに向いているのだ。
...一人の英雄が必要だ。神々の保護を必要とせず、神々の掟にとらわれない男が。神々にとって必要であるが、神々ができない行為を彼はできるのだ」(ヴォータン)

神々の長であり、契約をつかさどる主神ヴォータンが、神々の世界を滅亡から救うために、慣れ親しんでいない、前例のない不確定な未来を求めており、掟にとらわれない自由な英雄を必要としている――ここに指環4部作のドラマの根幹が凝縮されている。

ヴォータンの娘であり、ワルキューレ(戦乙女として戦場で倒れた英雄を、天上のヴァルハラの城へと連れて行く)の一人であるブリュンヒルデが、父の命令に背いてまでもジークムントとジークリンデを守る決断をする第2幕後半は、指環4部作全体の劇的転換点である。

最初ブリュンヒルデは、ただ父の命令を実行するだけの「死の使者」としてジークムントの前に現れる。が、ジークムントのひたむきな愛に打たれて心変わりし、絶対的な父の権威、神の意志と予定に背いてまでも、自分の意志で行動することを選び取る。
燃えるような愛が、それまで冷たかった他人の行動や生き方にまで影響を及ぼし、根底から変えてしまう――驚くべき瞬間である。
言い方を変えるなら、この瞬間、ブリュンヒルデは、ただの従順な出来の良い娘から、父が心の奥底で願っていた通りの、自ら考え自由に行動する主体へと変化したのだ。

当然、父ヴォータンは激怒する。それを望んでいたくせに、自分のコントロール下から脱した娘に対する父の最初の感情は怒りである。だがやがてその怒りは収まり、親の手から離れていく娘に対する慈しみの感情が湧き上がってくる。
あの有名な「ワルキューレの騎行」に始まる第3幕のテーマはこれである。

ほとんど家族劇といってもいいこの第3幕には、ワーグナーの全作品中、もっとも熱く美しい抱擁の一つがある。幕切れのクライマックス「ヴォータンの別れと魔の炎の音楽」は、冷厳な怒りが消え、ついには父としての娘への優しい思いやりがほとばしり出る、そして娘が感謝のうちに思い切り甘える――夢の中の理想の父娘の抱擁である。

ここでやはり"まなざし"は重要なキーワードとなっている。
再度掲げよう。

「この輝く二つの瞳(まなざし)は、いつも微笑みつつ、わしはいつも楽しんだものだった。この二つの眼の星は、幸せきわまりない男に輝け!」(ヴォータン、第3幕)

ここで、炎の中で眠るブリュンヒルデを覚ましにやってくる英雄ジークフリートの存在が予感されている――美しい言葉である。

ワーグナーの音楽の中には、こうした眼の輝きそのものが、響きのなかに溶け込んでいる。まなざし――見る行為――は、私たちの人生において、もっとも大切な価値である。
そんなことを思いながら「ワルキューレ」を楽しんでみてはいかがだろうか。


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