ミラノ・スカラ座 2013年日本公演

原作を超えたオペラ

 ヴェルディの生涯に渡るシェイクスピアへの敬愛の念は、『マクベス』『オテロ』『ファルスタッフ』という三作のオペラに結実した。それらの原作を見ると、《マクベス》と《オセロー》は文句なしの名作悲劇だが、『ファルスタッフ』の原作の喜劇《ウィンザーの陽気な女房たち》はあまり上演の機会は多くない。人数の多い端役を整理し切れず、人間関係が込み入ったなかに騎士崩れフォールスタッフ(ファルスタッフ)への懲らしめが3回も盛り込まれて、エピソードが散漫になってしまうからだろう。
 しかしこのフォールスタッフこそは、シェイクスピアが世に送り出した多くの名キャラクターのなかでも随一の巨大さを誇る人気の男なのだ。《ウィンザーの陽気な女房たち》ではとっちめられるばかりだが、活躍するのは別の作品《ヘンリー四世》のなかである。活躍と言っても、彼の場合はハル王子の悪友として様々な悪さをする一方、戦となると平気で虚言を弄して生き延びようとする。オペラの第1幕第1場でファルスタッフがのたまう「名誉とは?ただの言葉さ」のくだりは、台本を書いたボーイトが《ヘンリー四世》の方から取ってきた台詞だ。身体も楽天性も巨大で、意気地の方では小心者でもある、あらゆる意味で「幅の大きい」この憎めない騎士。舞台を圧するその豪快さは、多少のお仕置きを受けたくらいではへこまない圧倒的な生命力を発している。
 ストーリーの枠組みである《ウィンザーの陽気な女房たち》は、シェイクスピアでは珍しい「同時代劇」だ。昔の歴史や遠い国の話ではなく、「今」を生きている市民たちが主役。現代にも通じる、等身大の人々が、それぞれの立場の隙間から本音を覗かせる。偉そうにしている割には疑心暗鬼に捕われてあたふたする男たち。彼らを立てつつも、機知と行動力で上回って実は尻に敷いている女たち。初々しい恋心のやり取り。今どきと変わらない人間模様だ。
 このウィンザーという町の人々の関係性が見事に図式化されているのが、オペラの第1幕第2場である。大勢の人が一度に現れるが、原作の無駄な人物設定が完璧に整理されているので、場は全く混乱しない。幕切れではフォードたち男性陣(4拍子系)とアリーチェたち女性陣(3拍子系)の別々の思惑が音楽的にぶつかりながら交錯し、そこに若いフェントンの恋の歌が美しく織り込まれていて、全体の精妙なアンサンブルには舌を巻くばかり。上述したような人間関係の提示が、オペラだからこそ軽やかに成し遂げられているのだ。


『オテロ』と『ファルスタッフ』というペア

 ヴェルディとボーイトはこの作品の前に『オテロ』を書いているが、それと『ファルスタッフ』との対比も面白い。『オテロ』の中心テーマは「嫉妬」だが、これは『ファルスタッフ』ではフォードに受け継がれている。情況証拠だけで妻の不貞を疑う彼は、一歩間違えばオテロと同じ道を歩みかねなかった。だがそんな暗い影も、女たちの機転と寛大な赦しで素早く吹きはらわれる。
 ファルスタッフが名誉心の空しさを喝破する「名誉とは?」の歌は、イアーゴの「クレド」にも比すべき己の信条の宣言である。『オテロ』の原作では、オセローは最後に「自分のしたことは名誉のためだった」と悔いるが、もしその場にファルスタッフがいたら、きっと大爆笑して辺りの人間を吹き飛ばしてしまったことだろう。『オテロ』の舞台であるキプロス島の自家撞着を誘う閉鎖性と、ウィンザーの風通しのよさとの鮮やかなコントラスト。そんなことまでヴェルディとボーイトは考えさせてくれる。


人の営みすべてに等しく注がれる眼差し

 太鼓腹に生命力を溜め込んでいるファルスタッフだが、ただ傍若無人というわけではない。《ヘンリー四世》での彼は結構女たちにもモテているし、若い時分は確かに体も細かったらしい。二重恋文の策略も自惚ればかりが根拠とは言えないだろう。それに彼も、迫る老いにふと心が陰ることがある。道化が人を笑わせながら、内に哀感を秘めているように。
各幕の前半ではそんなファルスタッフが中心に置かれ、後半では市民たちからしっぺ返しを食らう(第1幕はその計略立案)。『ファルスタッフ』は通好みのオペラとも言われるが、実にこれほど明快に構成された劇も珍しい。構造とアンサンブルが一分の隙もなく作り込まれているからこそ、そこにぶつかるファルスタッフの破壊分子ぶりが際立つというものだ。
 しかしファルスタッフは、決して社会の除け者ではない。騎士であり道化である彼の存在意義を「機知」の源とした終幕の扱いは、優れてシェイクスピア的でもある。賢明な女房たちは、彼をさんざん懲らしめはするが、逃げ場を失うほどに追い詰めたりはしない。誰もが存在を認められ支え合って、人間全体の調和なす営みとなり、その営みは笑いへと昇華される。それが音楽的に表されたのが、大団円で一人一人が「世の中すべて冗談」と歌う歌声が重なっていくフーガだ。どこかの声部がのべつ支配的になるのではなく、時には浮かび上がり、時には支え役に回りながら、全体像を成していく。
 シェイクスピアは様々な芝居で、人のあり方をあらゆる角度から見つめ、豊饒な言葉で役の人物に血肉を与え、心の振れ幅のすべてをファルスタッフ張りの巨大なステージに乗せてきた。その眼と同じ眼をヴェルディも遂に獲得して、最終作の最後に、生涯愛したシェイクスピア的世界をオペラで実現させたのだ。人間賛歌の最高の場面である。

          

ミラノ・スカラ座2013年日本公演
「ファルスタッフ」

会場:東京文化会館

2013年
9月4日(水)/ 9月6日(金)/ 9月8日(日)/ 9月12日(木)/ 9月14日(土)

指揮:ダニエル・ハーディング
演出:ロバート・カーセン

【予定される主な配役】
サー・ジョン・ファルスタッフ:アンブロージョ・マエストリ
フォード:ファビオ・カピタヌッチ (9/4,8,14)、マッシモ・カヴァレッティ (9/6,12)
フェントン:アントニオ・ポーリ
アリーチェ:バルバラ・フリットリ
ナンネッタ:イリーナ・ルング
クイックリー夫人:ダニエラ・バルチェッローナ

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