英国ロイヤル・オペラ 2010年日本公演
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作品解説
オペラ「マノン」 だけが描き出す美少女の光と影
「マノン」にあって「マノン・レスコー」に無いもの、それは音の「華」と物語の「毒」である。プッチーニの旋律を貫くのがパッションならば、マスネの音運びには、青春の燦めきと、少女の罪悪感から滲む苦味が共存する。ただし、マスネのマノンには深い悪意はない。彼女はいわば、若さゆえの欲張りな本能に忠実であるだけなのだ。だからもし、マノンの手酷い裏切りを面と向かって責めたとしても、彼女はただ、さめざめと涙して「だって、そうしなければならなかったんですもの」と呟くことだろう。 1884年の1月にパリで初演された「マノン」。その後30年間で800回強も上演されるという大ヒットを記録し、今も衰えぬ人気を誇るフランス・オペラの傑作だが、作曲家と台本作者のメイヤックとジルが目指したのは、愛らしくも罪深いヒロインの「光と影」を、できる限り綿密に描くことであった。それゆえ本作は、オペラ・コミックの伝統を超える大規模な五幕立てになっている。劇中では純愛から打算の境地、慎ましい仕草から驕慢な振る舞いまで、ヒロインの様々な素顔がアリアや重唱に投影される一方、恋人デ・グリューの心も、場面が多い分、より激しく乱れ揺れ動くのである。 なお、プッチーニの作と同じく、「マノン」には恋人たちのストレートな愛の対話も勿論盛り込まれているが、マスネのリズミカルな音楽は、さらに、ヒロインの愚かさを浮き彫りにする。中でも驚くのは、金銭に目が眩んで恋人をあっさり捨てたのに、その彼が愛の記憶を封印したと知った途端、「私を忘れるだなんて!」と神学校に乗り込むマノンの身勝手さである。しかし、ここで彼女はまたもや男の心を絡め取ってしまい、その結果、賭博に手を染め破滅に突き進むこのカップルを、観客も固唾を呑んで見守らざるを得なくなる。そして、マノンが絶命する幕切れでは、舞台上のデ・グリューと同じく、客席も彼女の所業を赦さずには居られない。マスネのメロディが、少女の魂を温かく包み込むからである。
英国ロイヤル・オペラハウスの「マノン」
22年ぶりの新演出として、2010年6月に幕を開ける「マノン」。その3ヵ月後に早くも東京で披露されるという今回、まずは演出家ロラン・ペリーのアイデアが注目の的。彼いわく「絶世の美少女像を、男の幻想を交えた艶やかさで彩る一方で、18世紀の物語を20世紀初頭のベル・エポック期に置き換える」とのことなので、女性がよりエレガントに装い、男もりりしく振舞う群集シーン(第3幕)など、バレエも交えた一大フェスタとして華々しく盛り上がることだろう。 そして、キャスティングの中心は勿論、話題のアンナ・ネトレプコ。本作では特に、健康的な美貌を誇る彼女が、ヒロインの儚げな面差しを作り上げるさまに着目。中でも、第2幕の名アリア〈さようなら、小さなテーブルよ〉で愛の巣を自ら壊す罪悪感や、第3幕の華麗な〈ガヴォット〉で、若さを自慢しつつも「何かが足りない」日々に気づき始める女心の表出に耳を欹てたい。また、改心したデ・グリューを愛欲の道に引き戻す二重唱も、全力投球の歌いぶりで最も劇的な情景となるはず。さらに、賭博に昂ぶる享楽のアリア〈黄金の歌〉や、護送途中でデ・グリューと再会する〈死別の二重唱〉など、彼女の多彩な個性が楽しめる場面は実に多い。 そして、生真面目なデ・グリューの歌では、深い愛情を訴える〈夢の歌〉(第2幕)や激しい葛藤のソロ〈消え去れ面影よ〉(第3幕)が絶品。ポレンザーニの凛々と響く高音域が威力を放つだろう。また、遊び人の軍人レスコーでは、堂々たる上背の持ち主ブラウンが、従妹マノンを言いくるめるソロ〈しっかり見ておくれ〉(第1幕)で聴かせる軽妙な語り口に期待。また、誘惑者を演じるシメルやド・メといったヴェテランの存在感も舞台を引き締めるに違いない。 そして指揮者パッパーノの辣腕ぶりに寄せられる期待も大きい筈。名録音も既に成しえているだけに、18世紀のリズムを活かした擬古的な旋律美から燃え盛る男女の熱愛シーンまで、劇的な緊張感を絶えず迸らせるに違いない。このように、最高の布陣を揃えたこの演目で、ロイヤル・オペラの底力を体感してみたい。 岸 純信 (オペラ研究家)