英国ロイヤル・オペラ 2015年日本公演

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開幕直前! サイモン・キーンリサイド シェイクスピアとオペラ『マクベス』を語る

英国ロイヤル・オペラ日本公演開幕を直前に控え、《マクベス》のタイトルロール役のサイモン・キーンリサイドが、メール・インタビューに答えてくれました。シェイクスピアとオペラ《マクベス》について、知性派のキーンリサイドならではのさまざまな視点から作品を紹介してくれています。


オペラの中で「演じる」ということ

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 どんな役であっても演技力は必要です。
 シェイクスピア作品にはどこか気持ちを高ぶらせる魅力があり、それだけに舞台の内容はよくできていて当たり前という期待もあります。でもそれはちょっと違います。そもそもシェイクスピア作品かどうかにかかわらず、あるいはシェイクスピア作品を原作にした劇だろうとオペラだろうと、主眼をはっきりさせ、完成度を高めようとするひたむきな姿勢が欠かせません。仮に作品があまり良くなかったとしたら、その分、観客になんらかのメッセージを届けるために、もっともっと努力しなければならないと思うのです。
 私にとっては、舞台でどの面を際立たせるかは、作品によって異なります。
 例えば、モーツァルトの《魔笛》に登場するパパゲーノを演じる場合、 歌唱よりも肉体表現のほうがはるかに大きな課題です。技巧を凝らせと言っているわけではありません。むしろそんな必要はまったくないのです。この場合、あくまで肉体表現、対話もですが、こういうものがおそらくは歌唱よりもキャラクターを的確に描き出せるということなんです。
 逆に、ヴェルディの《椿姫》に登場するジェルモンのキャラクターの"描写"は、ほぼ全面的に歌唱に依存しています。この場合、"Prima la voce(プリマ・ラ・ヴォーチェ)"、つまり「歌唱第一」なのです。肉体表現による"色付け"は比較的単純です。とにかくメッセージの一番重要な部分を占めているのが歌唱なのです。
 思うに、普通の人を演じるよりも、極端な役を演じるほうが簡単でしょうね。もっとも、このオペラにそもそも普通の人がいるのかという声もあるでしょうけど、それはまた別の機会に譲りましょう。


黒澤明の『乱』と同様に、ヴェルディの『マクベス』は、名作のオマージュ

 シェイクスピア作品はいつの時代も絶えずいろいろな形に翻案、改変され続けています。日本が誇る巨匠・黒澤(明監督)の『乱』という名作があります。あれはシェイクスピアの『リア王』を下敷きにしたものです。それでいて作品自体、名作に仕上がっていて、決して『リア王』ではありません。
 これはヴェルディの手がけた『マクベス』にも言えることです。もはやシェイクスピア作品ではなく、これもまた1つの名作のオマージュにすぎないのです。


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マクベスを演じる、歌ううえで大切なこと

 マクベスは極端な役、どちらかといえば単純な男です。割と単純な使命を胸に、軍人として生き抜いた男です。性格はといえば無骨で大雑把で粗野ときている。ストーリーの中では作品のタイトルにもなったアンチヒーローですが、ある意味で小人物なんですね。はるかに邪悪でずる賢いマクベス夫人の手のひらで転がされているのですから。この夫婦の間で力関係が目まぐるしく変わっていく。そこは本当におもしろい部分だと思います。
 マクベスを歌う上で大切に考えることは・・イタリア語で「キアロスクーロ」という言葉があります。明暗の対比を常に変化させる表現手法ですが、これでマクベスの性格を描いています。つまりマクベスの優柔不断な部分、弱みといってもいいでしょうね。これを音楽にはっきりと反映させています。常に揺れ動く力関係と性格を描くうえでヴェルディが意図したのは、生身の人間の姿をさらけ出すことでした。周囲の状況や誘惑、権力、チャンスに振り回されて苦しむ----そんな弱い人間の姿です。それがあるからこそ、マクベスは、よくある漫画のキャラクターのような存在に堕落しないでいられるのです。
自分の歌声でそういう方向性を極めていけたらいいと思います。


■ 現代人の共感を得られる、《マクベス》のストーリー

 誰もが身に覚えのありそうな状況に苦しむ生身の人間を演じたら、おそらく観客の共感を得やすいと思います。もちろん、オペラとか舞台という装置は、どうしても極端なストーリーを見せがちです。でもそうすると、観客は他人事のように感じてしまうはず。説教だらけの話を聞かされても、おもしろくないでしょう。
 マクベスが抱える権力闘争も、悪の道への誘惑も、その根っこの部分は同じです。現実の生活にも通じるところがあります。実際、我々は日常生活でこういう私利私欲に心が揺れているでしょう。さすがに殺人はないにせよ、ちょっと大げさに真実を語ったり、嘘をついてみたり。野心といえばいいのか、それとも単なる嘘なのか。為政者も理念より "現実主義"に走るでしょう? そこに大きな違いはないと思うんです。嘘も方便なのか、それとも野心的な夢を語っているだけか。そう考えれば、真実と偽りの境目は微妙なんですね。

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stage photos: ROH/Clive Barda, 2011



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