ウィーン国立歌劇場2016年日本公演 もっと知りたい!聴きどころ①「フィガロの結婚」


今秋の来日公演で上演される3作は、ウィーン国立歌劇場が威信をかけてもってくる名作。音楽ジャーナリスト・音楽評論家の林田直樹さんに聴きどころを中心に各作品の魅力を解説していただきました。洒脱で読み応えたっぷりの聴きどころ解説。ぜひご一読ください。



大人のためのラブコメディ~「フィガロの結婚」の魅力について

林田直樹(音楽ジャーナリスト・評論家)



初めて「フィガロの結婚」を観た人は、伯爵の屋敷で起きている1日のなかのドタバタ騒ぎを見て、こう思うかもしれない。
「いったいぜんたい、何をこの人たちは、必死になっているんだろう?」

椅子の下に隠れたり、衣裳部屋の中に隠れたり、窓から飛び降りたり、出てこいと怒鳴ってドアをこじ開けようとしたり、わけのわからない変装をしたり、夜中に庭でうろうろしたり...。
わけのわからない一日の出来事である。

かつてこのオペラについて、"ロココの戯れ"、という言い方がなされてきた。18世紀ヨーロッパ貴族社会の、優雅な恋の喜劇。美しいメロディにあふれた、滑稽だがエレガントな世界...。
確かにそういう見方も可能だろう。

だが、それにしては彼らのやっていることは、あまりに真剣すぎないか。
滑稽なドタバタの表層の奥にある、真剣さの源に目を凝らすことから、このオペラの本当の面白さが始まる。

あえて言うなら「フィガロの結婚」は、"大人のためのラブ・コメディ"である。
だが、なぜ"大人の"かというと、このオペラの本質的なテーマに、「愛を確認するためのセックス」の問題が含まれているからである。

まずは、主人公たちをさまざまな滑稽な行動へと駆り立てているエネルギーを考えてみよう。
フィガロとスザンナは、お互いを強く愛し合っており、早く結婚して甘い新婚生活を愉しみたいと、有頂天かつ熱狂的に願っている。
主人のアルマヴィーヴァ伯爵は、かつて熱愛したロジーナ(いまは伯爵夫人)のことをうっかり忘れ、若い娘スザンナのコケットリーに夢中になっており、何とか結婚前にモノにできないかと狙っている。
伯爵夫人は、夫の愛を取り戻したいと強く願っているのだが、一方で美少年ケルビーノのことも可愛くて仕方がない。
小姓ケルビーノは、思春期特有の漠然とした欲望を自分でもどうしていいかわからない。彼にとって伯爵夫人は危険なくらいに大人の女の魅力を放っている。

つまり、劇中で起こるさまざまな計略やハプニングは、すべて彼らがそれぞれの立場で「愛し、愛されたい」と願うエネルギーによって、起こしてしまう事件なのだ。勢い余って嫉妬に狂うこともたびたびである。彼らはすぐに我を失い、自己矛盾に陥り、涙を流し、愛情を独占できないのを嘆き、くやしがる。

このオペラに登場する人物たちの、何と純粋で、何と炎のような愛にあふれ、そして愛し愛されるということに対して真剣な――美しい人々なのだろう、と気がついたときに、初めて《フィガロの結婚》の本当の素晴らしさが見えてくる。

「フィガロの結婚」は決してただエレガントなだけの、恋の戯れなどではない。
本気で愛を求め、愛し合いたい人たちが織り成す、すれ違いと、和解と、はかない希望に満ちた、切実なドラマである。
近代の始まりに書かれた、ある高らかな宣言である。愛の前には、貴族も平民も、みな平等ではないかというモーツァルトの心からのメッセージである。

幼年時代から列強各国の君主たちの前で演奏し、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の知己も得ていたモーツァルトにとって、王権などというものは決して神権的なものではなく、「同じように弱い人間じゃないか」というのが、偽らざる実感だった。

「フィガロの結婚」が愛の問題を語りながらも、その本質においては王侯貴族の旧体制の身分差別や古い因襲に対する芸術的な挑戦状であり、あらゆる人間の平等、自由、基本的人権の尊重という根源的なテーマを持っていることは、明らかである。
そこにまた、このオペラのいまも変わらぬ現代性がある。



最高の聴きどころ―伯爵夫人の3つの見せ場

このオペラを理解し楽しむ上での重要なひとつのポイントは、夫の愛を信じられなくなった伯爵夫人が、ひとり尋常ではない苦しみ方をしているという点だ。この点、フィガロやスザンナは実は脇役に過ぎない。観客は第2幕から登場する伯爵夫人の苦しみに早く気がつくべきである。そうすれば、第4幕で暗闇の中、伯爵夫人がスザンナに変装して夫に口説かれるのを待っている状況が、いかに精神的に追い詰められた末の行動であるかを知ることになり、ドラマ全体の緊張感が全然違ったものになってくる。

こんなにも苦しんでいる伯爵夫人に対し、モーツァルトがどういう音楽をつけているか? そこから入るのが、このオペラの真価に接近するには一番早い。
モーツァルトは、涙をぼろぼろ流して感傷的になり、一緒につらそうで深刻な顔をするわけではない。ほとんどの場合、モーツァルトは長調の音楽で、優しい笑顔で包み込むような視線を伯爵夫人に投げかける。短調はわずかにほんの一瞬――まるで瞼を閉じた瞬間にひとしずくだけ涙が頬を伝うように――垣間見えるだけだ。

そういった意味で、伯爵夫人の3つの見せ場を、「フィガロの結婚」の最高の聴きどころとして第一に挙げたい。
夫に対して自信を喪失した苦悩を歌う第2幕冒頭のアリア「愛の神よ、慰めをもたらせたまえ」。愛された過去を懐かしみ、夫の愛を取り戻そうとする絶望的な試みを前にした不安を訴える第3幕のアリア「よき時代はどこへ行ってしまったの」。そして、長大な全体のドラマが収斂する第4幕の最後、不実を詫び跪いて許しを請う夫を前に、一呼吸置いて「私は優しいから許して差し上げますわ」と歌う――モーツァルトが書いた人生の全部の音楽の素晴らしさが一点に凝縮したような――あの優しい涙のような瞬間。



精妙な合う綾を織りなし、多面的に輝く音楽の美しさ

そして「フィガロの結婚」の魅力として忘れてはならないのは、聴き手に愛想良く、しかも幸福感でいっぱいにしてくれるようなメロディの存在である。第1幕最後のフィガロのアリア「もう飛ぶまいぞこの蝶々」、第2幕のケルビーノのアリア「恋とはどんなものかしら」を一度でも耳にして、口ずさみたくならない人はいないだろう。
「フィガロの結婚」は特にプラハで大受けに受けた。町中の人々がそのメロディを口笛や鼻歌にし、モーツァルトを大喜びさせた。本物で、なおかつ誰にでも親しまれる大衆的音楽を書くことは、モーツァルト自身の強い信条だったが、それを最大限に成功させたオペラこそ「フィガロの結婚」だった。

フランスの劇作家ボーマルシェの原作戯曲「ばかげた一日、またはフィガロの結婚」は、オペラ初演の2年前の1784年にパリで初演されて空前の成功を巻き起こしていた。反貴族的で過激なセリフが大きな特徴だったが、モーツァルトと台本作家ダ・ポンテがこの戯曲をオペラ化するにあたっては、そうした長セリフはほとんどカットされた。それは検閲の都合というよりは、オペラの真のテーマである愛の問題とは関係がなく、音楽にも不向きだったからであろう。

「演劇よりもオペラの方が現実に近い」とモーツァルトは考えていた。演劇では一人一人が別々の言葉を同時にしゃべることはできないが、オペラなら同時に別々の人物が感じている異なる感情を、一つの音楽に乗せることができる。もし神の視点で人間同士の関係を見ることができたら、それは確かに演劇よりはオペラに近いに違いない。特に《フィガロ》では、六重唱や七重唱のアンサンブルがたびたび繰り広げられ、劇の進行につれて揺れ動くそれぞれの人物の心の動きが、一つの音楽に結び合わせられている。そこで精妙な綾を織りなし、多面的に輝く音楽の美しさもまた、《フィガロ》の醍醐味である。



人間臭い、魅力ある人物、アルマヴィーヴァ伯爵


最後に、アルマヴィーヴァ伯爵の役作りについても一言。
最近は歳とともに、フィガロの視点ではなく、すっかり伯爵の(つまりオジサンの)視点でオペラを観るようになった。彼は必ずしも妻を放り出して若い娘に関心を寄せるただの短気で好色な権力者というわけではなく、人々にも愛されたいと願う、実はとても人間臭い、魅力ある人物でもあると思いたい。

伯爵夫人がかつて愛していたはずの情熱的で誠実な若々しさの面影、そして婚約中のスザンナが若いフィガロをさしおいてつい内心惹かれるほどの魅力が、伯爵にあるほうがいい。

こんな風景を思い出す。
ある「フィガロの結婚」のリハーサルを観ていて、村人たちが大勢出てくるシーンで子どもたちが登場した。そのとき、伯爵役の歌手が、子どもたちの可愛らしさに微笑んで、頭をそっと撫でたのだ。
これには新鮮な驚きを覚えた。リハーサルでの偶然かもしれない。が、ドラマの中では憎まれ役で、内心孤独で愛に飢えている伯爵が、実は自然に村の子どもを愛している素顔を見たようで、「そうか、あんなに怒っていても伯爵は子どもが好きなのか...」と嬉しくなった。

モーツァルトのオペラの演出には、こういう優しくはみ出すような風景――何か人をほっとさせ、元気付ける人間的な瞬間――が少しでもあったほうが、やはり音楽の本質からいってふさわしいと思うのだ。

「フィガロの結婚」ほど、何度観ても、永遠に飽きないオペラはない。
あの素敵な伯爵の館の人々が、どんなふうに生き生きと動きだし、既定の決まりごとからはみ出し、新たな表情を見せてくれるか。しかもそれがポネルのあの永遠の名舞台、ムーティ指揮ウィーン国立歌劇場の豪華な面々によって体験できるのが、いまから待ち遠しい。


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