ウィーン国立歌劇場2016年日本公演 もっと知りたい!聴きどころ③「ナクソス島のアリアドネ」

今秋の来日公演で上演される3作は、ウィーン国立歌劇場が威信をかけてもってくる名作。音楽ジャーナリスト・音楽評論家の林田直樹さんに聴きどころを中心に各作品の魅力を解説していただきました。洒脱で読み応えたっぷりの聴きどころ解説。ぜひご一読ください。


演劇好きの大人の女性にこそ知って欲しい、
「ばらの騎士」のさらにその先の世界~「ナクソス島のアリアドネ」



林田直樹(音楽ジャーナリスト・評論家)



オペラと演劇が高度に融合し、別々の状態であるときよりも、何倍も輝くこと。
この大きな夢は、モンテヴェルディの時代からワーグナーの楽劇に至るまで、多くの天才たちが追い求めてきたものだ。
20世紀はじめには、この夢を共に抱いた作曲家リヒャルト・シュトラウスと詩人フーゴー・フォン・ホフマンスタールの二人が、世にも大胆な実験を企て、洗練の極致のような作品を作り上げた――それが「ナクソス島のアリアドネ」である。

このオペラは、それまでに書かれたどんなオペラとも似ていない。
舞台は「序幕」と「オペラ」の二部構成。
「序幕」はほとんど演劇そのもので、いわば楽屋ネタである。作曲家、音楽教師、オペラ歌手、喜劇役者、舞踊家、スタッフ、プロデューサー、スポンサーらが入り混じって、舞台を上演する前の作り手たちのいざこざが、コミカルに描かれている。
歌い語りによる会話で進行するこの「序幕」を、リヒャルト・シュトラウスは自らの作風転換の決定的な契機とみなしていた。
「もう二度とワーグナー風の猪突猛進型の音楽には戻らない」と後日シュトラウスはホフマンスタールへの手紙で書いている。それくらい重要なターニングポイントだった。

この「序幕」では、かなり辛辣かつユーモラスに、オペラ上演をめぐる状況が皮肉られている。自分の出番のアリアだけが大事なプリマドンナとテノール歌手、いかにも深刻な悲劇を上位に置き、肩の凝らないわかりやすい喜劇を見下す作曲家、作り手のプライドを粉々にするスポンサーとプロデューサーの意向、等々。
いったい旋律はどうなるのか? 音楽は優先されるのか? この現代において?
いまなお新しい大問題が提起され、作曲家が頭を抱える様子までが描かれる。

要するに楽屋ネタ、というと言葉は悪いかもしれないが、シュトラウスにおける楽屋ネタは、おそらくこの世で最も洗練された、洒落た出し物の一つでもある。なぜならこれは――音楽こそ、芸術こそ、人生でもっとも大切なものだと思っている人に向けてこそ作られた、思わず微笑まずにはいられない自虐ネタなのだから。

「序幕」の主人公は作曲家である。冒頭の勇ましい序曲は、若々しい作曲家の肖像画。自分のオペラに深遠な象徴を重ね、一途に真面目な悲劇を志している。そこに突如主催者兼スポンサーから無理難題が押しつけられる。別々に予定されていたはずの喜劇と悲劇を、あえて一緒に上演せよというのだ。そんなことできるわけない! 一同は大混乱に陥る。
シリアスなものと、コメディなものとを、同居させる――この困難なテーマこそが、かえって舞台の可能性に新しい光明を与える、というのが「序幕」のミソである。

そのカギは、喜劇役者で蓮っ葉女(コケットを日本語に訳すとこうなる)の役どころのツェルビネッタにある。
いつもは元気で明るくて何も考えていなさそうな尻軽女キャラクターのツェルビネッタが、「本当は一人ぼっちでいつも寂しいの。変わらぬ愛を一生捧げられる男の人を求めているの」と本心を打ち明け、人生の真のかけがえのない時について語りはじめたときに、作曲家のインスピレーションに火がつくのだ。
それは恋の予感にも似た、理解と啓示の瞬間である。

それにしてもこの「序幕」、あらゆる演技と会話、シーンの変化、人物の出入り、それらすべてに、歌とオーケストラが機敏に対応している。何もかもが絶えず動き続け、陶酔は長引かず、常に身を翻す。こんなに運動神経のすばしこいオペラがあっただろうか? 旧来のオペラの形式であるレチタティーヴォ・セッコを継承しているとはいえ、これはもっと自由で精巧な、新しい何かである。「ばらの騎士」には確かにそれが予感されていたが、「ナクソス島のアリアドネ」では響きはずっとスリムになり、透明感を帯びた軽いものになっている。これはもう、音による芝居の"演出"そのものとなっている。
「ナクソス島のアリアドネ」の真の実験性は、この点にこそ発揮されている。

「序幕」で湧き起こった興味津々たる無理難題――喜劇が悲劇に乱入したらどうなるか、実際にやってみようじゃないか――に対応するのが、二部構成の後半の「オペラ」である。
ここで時間の流れは一変する。言葉の応酬が中心で、変わり身の早い芝居だった「序幕」とは違い、「オペラ」では古代の架空の孤島を舞台に、シュトラウス得意のとろけるように甘い旋律が、アリアが、継ぎ目のない演劇的な流れの中でゆったりと繰り出される。
確かに喜劇は悲劇に乱入する。けれど、お互いはお互いを引き立てあい、コントラストによって輝きあっている。モーツァルトとブラームスとワーグナーの精神を継承したシュトラウスが、さらにその先を目指しながらも、ドイツ・ロマン派の終わりを予感しつつ切り拓いた新境地がここにはある。それは、最晩年の「カプリッチョ」や「四つの最後の歌」へとまっすぐにつながっていく、諦念とあこがれを秘めた、夕映えのような美しさ――これは、「ばらの騎士」のその先の世界なのだ。

ここで、二人のヒロインの興味深い対照についてぜひ書いておきたい。

王女アリアドネは、花嫁になりそこね、見捨てられ、置き去りにされ、心乱れ、孤独のうちにナクソス島でただ一人、死を願っている。悲しみのあまり、もはや狂いかけている、哀れな存在である。悲劇のアリアドネには、ただひとつの誠実な愛を貫くか、さもなくば死かの二者択一しかない。望みを失った彼女は、もはや煩わしい生をとりあげてくれる死の到来を待ち望んでいる...。

そこへ道化の仲間たちと一緒に登場するツェルビネッタは、コケティッシュで浮気性の女である。あなた一筋と思っていても、彼をどこかで裏切ってしまう。それなのに彼が好き。気は確かなつもりでいても、どうしてもたくさんの男たちに気移りしてしまう。もう、自分で自分の心がわからない。憎んでも憎み切れないくらい男に苦しめられてきたが、それでも、男にぞっとする一方で、うっとりする気持ちも募ってしまう...。

――どんな女性の心の中にも、アリアドネとツェルビネッタの両方が住んでいるのではないだろうか? 潔癖すぎて生きていくのが不器用な女と、したたかなようだけど自分で自分がよくわからない分裂的な女と。
これは現代にもそのまま通用する、普遍性のある二人の女性像なのだ。

二人にはオペラ史上屈指の素晴らしいアリアが与えられている。
アリアドネが歌うアリア「すべてのものが清らかな国がある」は、シュトラウスらしい息の長い甘美なメロディを堪能できる名曲。ツェルビネッタが歌うアリア「偉大なる王女様」は、コロラトゥーラ・ソプラノの超絶技巧を駆使した難曲で、シュトラウス会心の作。

最期、アリアドネには突然救いがもたらされる。待ちかねた死の使いのようにして現れた男は、実はバッカスであった。彼は苦悩ではなく愉悦へと誘う魔法の言葉を語り、新しい生の始まりを語る存在であった。
バッカスのワーグナー風の英雄的な声と、3人のニンフのうっとりとしたようなハーモニーとの掛け合いも、不思議な美しさのある聴きどころである。すべてを委ねたくなるような新しい神の到来、すべてを変化させてしまう深い歓びがもたらされ、アリアドネとバッカスは神秘的で甘い抱擁のうちに幕となる。

シュトラウスとホフマンスタールの二人は、この「オペラ」を演劇との融合のうちに、象徴的なドラマとして、すべての孤独な女性への親愛なメッセージとしても書いたのだと思う。
演劇好きの大人の女性にこそ、「ナクソス島のアリアドネ」をお薦めするゆえんである。


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