ミラノ・スカラ座 2013年日本公演

 ヴェルディの最高傑作とほまれ高い『ファルスタッフ』は、風変わりでいて複雑な作品、まるで難解なパズルであると指揮者、ダニエル・ハーディングは語っている。生涯のほとんどの仕事を終えたヴェルディがもう多くを望まない余生を過ごしながらただ、数少ない心残りの一つとして抱えていたもの、それが若き時代より未消化のままに終わってしまっていた喜劇と呼ばれるオペラ作品との対峙にあった。シェイクスピアの生んだ珠玉の題材は、台本作家とヴェルディとの対話の中で奇跡と呼ばれるほど高い完成度をもった作品に仕上がっていく。「興行のための作品ではなく自分を喜ばせる作品にしたい」というのがヴェルディの思いであり、老練な作曲家としての十分な経験がそのオペラすべてに練り込まれている。「クラウディオ(アッバード)が常々言っていました。このような難しいオペラはない、と」。楽曲の分析にはかなりの時間を要するハーディング自身、かつて聞いた恩師の言葉をこのように語っている。「これまでとはまったく異なる形式や思想をもった作品をヴェルディはこの世に送りだしたのです。それは音楽、そして演劇において斬新であり新時代の到来を告げるような逸品、すべてが綿密に計算されていてそれは、まるで精密機械のメカニズムのようです」。
 およそ20年前、彗星のごとくクラシック音楽界に現れたハーディングもすでに37歳、小柄ながらその背中にはマエストロの風格が漂う。スカラ座へのデビューが2005年、ムーティ退任後のシーズン開幕を任された『イドメネオ』であり、その後も『サロメ』(2007年)やダッラピッコラの『囚人』(2008年)、また『カヴァレリア・ルスティカーナ』『道化師』(2011年)などを指揮している。「作品に必要な音の引き出しにはかなり拘りますが、このスカラ座のように豊富な音色をもつオーケストラと向き合う時、自ずと集中力が高まっていくのがわかるのです」というハーディング。一方オーケストラ側は目標に到達するまで妥協を許さない指揮者であると評価しているが、『ファルスタッフ』のような細かい作品となるとなおさらである。ハーディングは「ヴェルディとボーイトは喜劇の中に深さ、狡猾さ、純真さ、軽快さ、哀愁、そして人間のもつ生命力を完璧なまでに調和させながら仕上げました。人間のもつ本質のみで構成されていますのでたっぷり盛り込まれているものの余計な贅肉がありません。対話を基調に描かれていくこの作品の中枢はアンサンブルであり、隠されたからくりが音の束の中に必ず潜んでいます。それをひもとく術が言葉の中に隠されていて、うまく引きだすのがわたしの役目なのです」と語っている。
 カーセンの演出がことのほか注目を浴びている点についての見方も興味深い。「この作品は素晴らしい、ヴェルディの英知の結晶である、などと言われてはいますが、一般の聴衆への浸透度は意外と低いのです。高らかに叫んでいたのはほとんどが知識人であり、音楽や文学へ深く精通している人々なのですね。マエストロ・カーセンは、その両者の間にあった壁を取り払うことに成功しています。巧みな言葉の配置や、隠された旋律を理解する前にまず、いま舞台上では何が起こっているかという聴衆の目線に注目したのです」。舞台を1950年代という自分たちに身近な時代まで引き寄せて、客席からでは判断し難い庭園に人物を配置するよりもレストランの中にグループ分けしながら整理して見せたり、パステルカラーのキッチンでは隠れる、探すという一対の動作を面白おかしく見せるために数えきれぬほどの収納棚を配置するなど斬新なアイデアにはただ感心するばかりである。「何よりも人物の動きが興味深いのです。所作の浮き沈みがそれぞれの性格や意志を反映していますからね。言葉や音楽がなくとも笑える舞台ではないでしょうか」。緻密ながらそれ以上に音楽を楽しんでいるハーディングが指揮台で弾んでいる。誰もが楽しめる『ファルスタッフ』であること間違いない。

ダニエル・ハーディングと日本との絆

 世界を舞台に活躍している指揮者のなかで、ダニエル・ハーディングは現在最も日本の音楽界と強い“絆”を築いているといえるのではないでしょうか。1999年エクサンプロヴァンス音楽祭の引っ越し公演での初来日、2003年からはマーラー・チェンバー・オーケストラの初代音楽監督として来日を重ねるなかで優れた手腕を発揮したのは言うまでもありませんが、2010/11年シーズンからは新日本フィルハーモニー交響楽団のMusic Partnerに、さらに2012年4月には軽井沢大賀ホール芸術監督にも就任しています。
 外国人指揮者が日本のオーケストラにポストを持つことは珍しいことではありませんが、ハーディングと日本には、それにとどまらない結びつきが感じられるのです。ハーディングの新日フィルMusic Partner就任披露コンサートは、まさに東日本大震災が起こった当日、2011年3月11日だったのです。さまざまな困難な状況があるなかでこのコンサートが開催されたことは、後にNHKの番組でも紹介されました。翌日以降のコンサート中止を余儀なくされたハーディングは、スケジュールの許す限り日本に留まり、被災した方々のためのチャリティ・コンサートの開催を強く望んだそうです。実現することのないまま離日することとなったとき、ハーディングは「次の来日予定である6月には、3月に来られなかったお客さんのため、また、災害に逢われた方たちのためのコンサートを行いたい」と強く熱望。その言葉通り、マーラー・チェンバー・オーケストラとの来日に加え、新日フィルとともに震災のためのチャリティ・コンサートを開催したのです。
 2011年6月といえば、来日中止をするアーティストも続出のころ。「日本は地理学的に地震が起きて不思議ではないことはわかっている。逃げるなんてナンセンス。それよりも、私は来日を重ねるなかで、日本の文化や人々の愛情によって音楽家として得たものの大きさを感じている。大切な日本の友が助けを必要としているとき、やるべきことをやろうとすることが大切だと思う。私たち音楽家にできることは音楽を奏でることなんだ」というハーディングの思いはマスコミにも取り上げられ、演奏の素晴らしさとともに、日本のクラシック音楽ファンの胸に強く刻み込まれました。
 ダニエル・ハーディングは、「音楽を通して同じとき、同じ気持ちを分かち合うことができる、そして強さを確認して前に進めるのだ」とも語っています。ハーディングのタクトから生み出される素晴らしい演奏は、日本への大きなエールでもあるのです。

ミラノ・スカラ座2013年日本公演
「ファルスタッフ」

会場:東京文化会館

2013年
9月4日(水)/ 9月6日(金)/ 9月8日(日)/ 9月12日(木)/ 9月14日(土)

【予定される主な配役】
サー・ジョン・ファルスタッフ:アンブロージョ・マエストリ
フォード:ファビオ・カピタヌッチ (9/4,8,14)、マッシモ・カヴァレッティ (9/6,12)
フェントン:アントニオ・ポーリ
アリーチェ:バルバラ・フリットリ
ナンネッタ:イリーナ・ルング
クイックリー夫人:ダニエラ・バルチェッローナ

<チケット発売日>
一斉前売開始 (全公演のS〜D券) 4月13日(土) 10:00a.m.より

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