フィリダ・ロイドの『マクベス』 英国の劇場が誇る伝統と鮮烈なインスピレーションに満ちた心理劇
イギリス、ブリストル生まれのフィリダ・ロイドは、英国演劇界を代表する演出家の一人。数々の演劇やオペラで優れた手腕を発揮しています。もっとも、近年、彼女の名前を広く世界に知らしめたのは、ミュージカルと映画「マンマ・ミーア!」、映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」の監督としての方が大きいかもしれません。2つの映画で主演した女優メリル・ストリープが、「マーガレット…」でアカデミー賞主演女優賞を獲得したことも話題となりました。
興味深いのは、ロイド自身が、「マーガレット…」のなかには、シェイクスピア的な要素がたくさんある、と語っていることです。描こうとしたのは“権力と人間のもろさ”なのだと。これはまさしく、『マクベス』や『リア王』に通じるものだったでしょう。ロイドはまた、カメラワークによって見る対象が限定される映画と、演じる者を含めた空間のすべてを見て感じ取る舞台上演との違いについて、自分が行う仕事の直接的な違いはあるとはいえ、観客に何を見せるか、ということについては映画も舞台も共通しているのだと語っています。
たしかに、ロイド演出のオペラ『マクベス』は、派手な舞台美術はありませんが、たとえたった一人の歌手が歌っているだけの場面であっても、舞台全体に緊迫した雰囲気が溢れています。常軌を逸した興奮であったり、不気味さであったり、恐怖であったり…‥、登場人物たちの心情が、そこにある空気まるごとで観る者に迫ってくるように感じられます。ロイドのこうした手腕は、英国演劇で磨かれたものでもあるでしょう。また、この物語を牽引するのが魔女たちであることをシンボリックな衣裳や動きによって強く印象づけていることも、劇場演出での経験が活かされていると考えられます。
ヴェルディは『マクベス』のオペラ化にあたり、当時の主流であったベル・カント(美しく歌う)を否定し、マクベス夫人役の歌手には素晴らしい声より邪悪さを、マクベスを歌うバリトンにも朗々とした美声を聴かせることより、内面を表現できる感受性を求めました。それは、ヴェルディにとってオペラ『マクベス』は、単にシェイクスピア作品をオペラの題材としたというのではなく、シェイクスピアのドラマの本質を表現しようと挑んだことがうかがわれます。シェイクスピア作品をどう表すかを知り抜いたフィリダ・ロイドによるこの演出は、ヴェルディが望んだシェイクスピアのドラマの本質に英国の劇場が誇る伝統をもって迫りながら、現代の観客を引き込む鮮烈なインスピレーションに満ちた心理劇として作られた、魅力的なプロダクションです。
フィリダ・ロイドって、こんな人
アメリカの女優メリル・ストリープは、アカデミー賞最多ノミネートを誇りますが、その彼女に3度目のオスカーをもたらしたのが、フィリダ・ロイド監督による映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」でした。ロイドとストリープは、前作の映画「マンマ・ミーア!」で意気投合し、監督と女優という以上の“盟友”関係でもあるそうです。
ミュージカル「マンマ・ミーア!」は、ロンドンでは15年以上、ニューヨークや日本でも10年を越えるなど、世界じゅうでロングラン記録を樹立している大ヒット作です。東日本大震災が起こったとき、ニューヨークでの公演準備をしていたロイドは、あらためて「劇場とは何か」を自問したそうです。そして、出した答えは、“劇場とは、人生の感動や喜びのすべてを与える場である”。彼女のこの信念は、演劇、オペラ、ミュージカルと、ジャンルに関わらず貫かれているはずです。オペラ『マクベス』では、ハッピーというわけにはいきませんが、“感動”が与えられる場であることはたしか。
カスパー・ホルテンの『ドン・ジョヴァンニ』 追う女と追われる男、愛と疑惑、罪と罰…プロジェクション・マッピングの効果が魅せるスピーディな展開
2011年から英国ロイヤル・オペラのオペラ・ディレクターに就任したカスパー・ホルテンは、今やロンドン以外の歌劇場でも活躍をみせる気鋭の演出家。1973年コペンハーゲン生まれのホルテンによる新鮮な視点による演出が注目と人気を呼んでいます。『ドン・ジョヴァンニ』は、英国ロイヤル・オペラでは彼の2作目の新演出として2014年2月に初演されました。
ホルテンはこの新演出の前に、映画「ドン・ジョヴァンニ」(Juan)を制作しました。その際、スクリプターの言葉に驚いたそうです。モーツァルトのオペラを知らなかった彼女にとっては、ドン・ジョヴァンニのような男はヒドイ悪党でしかなく、共感すべき点がないと。たしかに、ドン・ジョヴァンニの行いは不道徳にして非道ですが、オペラを知る者にとっては“抗えない魅力をもった男”が大前提になっています。この驚きをもとに、ホルテンがドン・ジョヴァンニへの視点をあらためてもったことは、オペラの新演出にも影響していると考えられます。
ホルテンはオペラの新演出では、ドン・ジョヴァンニの独創的かつ性的なエネルギーに焦点を当てました。そのエネルギーは魅力的ですが、破壊的でもあります。ドン・ジョヴァンニは、最期まで悔いることなく地獄に落ちていくことになりますが、ホルテンの演出は、ドン・ジョヴァンニが自らこの最期に突き進んでいこうとしているようでもあります。オペラが終わったとき、おそらく大方の人が意外に感じ、でもふと立ち止まって、現代における“ドン・ジョヴァンニにとっての地獄”とは?と考えることを、ホルテンは想定したのかもしれません。追う女と追われる男、愛と疑惑、罪と罰、時代を問わないこの普遍のテーマを、現代に生きる者はどう考えるか?と。
また、このプロダクションでは、騙し絵効果ともいえるような舞台装置に加え、プロジェクション・マッピングが用いられているのも見どころです。現実と非現実、あるいは揺れ動く登場人物たちの心情がさまざまな投影によってスピーディに表されていきます。新しいアイディアに挑む演出家カスパー・ホルテンならではのプロダクションといえるでしょう。
カスパー・ホルテンって、こんな人
カスパー・ホルテンの映画監督デビュー作となったのが、モーツァルトのオペラを用いた映画「ドン・ジョヴァンニ」(Juan)です。全編、英語で歌われるオペラ映画ですが、現代のヨーロッパを舞台とするドラマ仕立て。ホルテンは、オペラを知らない人が観るための“ドン・ジョヴァンニ”を描こうと試みたようです。ホルテンはオペラ演出においても、いわゆる設定の”読み替え”を行いますが、その手腕が存分に活かされています。
逆に、今回上演されるオペラでは極端な“読み替え”は行わない代わりに、プロジェクション・マッピングを用いることで、これまでのオペラには無い“見せ方”に挑みました。プロジェクション・マッピングには、ロンドン五輪閉会式の映像コンテンツのクリエイティヴ・ディレクターを務めたルーク・ホールズを起用しています。