ルグリのアルブレヒトを再び日本で観られるとは!その報に色めきたった方も少なくないだろう。ルグリは長年パリ・オペラ座バレエを代表するエトワールとしてたびたび来日しているが、日本で『ジゼル』全幕に主演したことはほとんどなかった。久々に実現したのが2006年夏。英国ロイヤル・バレエのアリーナ・コジョカルとの共演だった。
その舞台においてルグリは、ノーブルダンサーのお手本ともいうべき演技を披露。ジゼルと想いを通わせつつ“かりそめの愛”だと悩む姿や自らの過ちを悔いる場では内面に秘めた感情のゆらぎを手に取るように伝える。第二幕、ジゼルへの変わらぬ愛を訴えるヴァリエーションには巧まず真情がこもった。ミルタに死へと追い込まれる場での細やかな足技には会場から思わずため息と感嘆の声があがるほど。その端正極まりない演技にオペラ座スタイルの精髄を思い知らされるのである。
いつまでも清清しさを保ち、踊るたびに「いまが最高」と思わせてきたルグリ。しかし、今シーズンで定年のためオペラ座を退団し、新たな道を歩むことになる。退団後初となる日本での舞台が今回の『ジゼル』となる。ジゼル役は東京バレエ団きっての名花、斎藤友佳理。ロシアに学び、ロマンティック・バレエの名手として知られる斎藤とのコラボレーションがどのような舞台を生むのか興味は尽きない。『ジゼル』を踊りこんできたふたりのこと、高い次元で互いの演技の溶け合う充実した舞台が期待できそうだ。
マラーホフといえばアルブレヒト、アルブレヒトといえばマラーホフ。そういっても過言ではないほどに、マラーホフにとって『ジゼル』のアルブレヒト役は自他ともに認める当たり役である。日本でもたびたび踊られてきた。しかし、何回観ても飽くことがない。いや、何回でも観たいと思わせる。なぜそれほどまでにマラーホフと『ジゼル』は切っても切り離せないのだろうか。
“バレエ界きっての貴公子“と冠せられるマラーホフは、『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』など古典バレエにおいて理想的な王子を体現する存在。しかし、彼の魅力はそれだけに留まらない。『ナルシス』『ヴォヤージュ』など以前から踊る創作作品に明らかだが、近年のマラーホフの演技には何よりも深いメランコリーが感じられる。ドラマティックな要素の強い『ジゼル』では尚のこと。マラーホフのアルブレヒトからは、偽りの愛ではなく心底ジゼルを愛してしまったがゆえの喪失感、悔恨の情が色濃く伝わる。その真に迫った演技は観るものを惹きつけてやまない。マラーホフの手にかかるとロマンティック・バレエの名作が現在を生きる我々の琴線に響く、陰影深いドラマとして説得力を増すのだ。
今回は自身率いるベルリン国立バレエ団に招聘するほど厚い信頼関係にある吉岡美佳に加え、小出領子とはじめて共演する。もはや“生きる伝説”ともいえるマラーホフのアルブレヒト。その演技を居ながらにして観ることのできる幸運をかみ締めたい。
“ジゼル役者”と称されるプリマは少なくないけれども、当代きってのそれとなると、斎藤友佳理は世界でも屈指の存在といっていいのではないだろうか。重力を感じさせない跳躍や軽やかな足さばきの比類なさは見事の一言に尽きる。そして、何よりの強みは、ロシアに学び往年の名プリマ、エカテリーナ・マクシーモワらに師事し、ロマンティック・バレエの精髄を知り尽くしていることだろう。第一幕、狂乱の場での凄愴なまでの演技、第二幕でのこの世ならざる者の踊り。いずれとっても音楽と共振し、一つひとつのステップから無言の囁きが聞こえてくるかのよう。至芸といえる。今回はルグリとの初共演となる。ロシア・バレエの精髄をもとに自身の演技を深める斎藤と、エレガンス、精緻を極めたパリ・オペラ座きってのノーブルダンサー、ルグリ。バックボーンは異なるがそれぞれの高めてきた芸術家魂が交わり、昇華して作品に新たな息吹を吹きこむのは間違いない。
マラーホフのベストパートナーは誰か?様々なプリマの名が頭に浮かぶところだが、そのひとりに吉岡美佳を挙げてもいいのでないか。華奢なプローポーションと気品を併せ持った、生まれながらのプリマである。『白鳥の湖』『眠れる森の美女』全幕に続いてふたりが『ジゼル』全幕で共演を果たしたのは2004年のこと。第一幕、吉岡のジゼルは、恋に目覚めた喜びや恥じらいを無邪気に踊る。誠心誠意ジゼルを愛するマラーホフのアルブレヒトとのデュエットでは、温かな空気がじんわりと舞台をみたしていく。それゆえ直後に起こる悲劇に対し観るものは痛切なまでの痛みを覚えずにいられないのだ。第二幕のパ・ド・ドゥでは、ふたりの分かち難い想いをせつせつと伝え清冽な感動を呼ぶ。互いの磁力が引き付けあうかのような、えもいわれぬ絆の強さが魅力といえる。『ジゼル』では4年ぶりの共演。円熟味と緻密さを増したパートナーシップの妙をとくと味わえるだろう。
満を持して、とはまさにこのことだろう。チャーミングな踊りにファンも多い小出領子が『ジゼル』のタイトルロールを踊る。思わず膝を打った方も少なくないはず。『眠れる森の美女』のオーロラ姫、『くるみ割り人形』のクララなどで披露した清楚な演技、伸びやかで美しい身体のラインをもってすれば『ラ・シルフィード』や今回の『ジゼル』といったバレエ・ブラン(白いバレエ)がよく似合うと考えるのはごく当然のことだろう。また、小出は近年アシュトン振付の心理劇『田園の出来事』で芯の強い表現を発揮するなど演技の幅を増している。可憐な村娘と精霊を演じ分ける演技力も十分。初役らしい清新な演技と、近年ますます磨きのかかる踊りをもってして小出ならではのジゼルを生みだすことだろう。マラーホフとは今回はじめてパートナーを組む。プリマの美質を最大限引き出すことに定評あるマラーホフのサポートを得て舞台は整った。開演を心待ちにしたい。