ミラノ・スカラ座 2020年日本公演

Photo: Brescia e Amisano / Teatro alla Scala

1995年日本公演で聴衆をノックアウトした『椿姫』
時を経てなお息づくその魅力とはいったいどこにあるのか?
音楽評論家堀内修さんに、その視点をご紹介いただきました。

 眩暈がした。ヴィオレッタのサロンの客たちの中に入ってしまったからだ。笑いかけたり口説いたりしているのは「合唱団」でも「客」でもない。この男は連れの女性ともう別れようとしているな。この女は男と親しそうにしているけれど、目当てはあっちにいる別の男だな。この女性は体調が悪いな。この男は二日酔いだな。幕が上がっていくらもしないうちに、ひとりひとりが生きてそこにいるサロンに、目が眩んでいた。1995年の9月、ミラノ・スカラ座日本公演の『椿姫』だった。
 オペラはかつてもっぱら作曲家に属していた。『椿姫』は「ヴェルディの『椿姫』」だった。割り込んだのはヒロインだ。無理もない。『椿姫』ならなんでもいいってわけじゃありませんからね。「カラスの『椿姫』」はスカラ座の『椿姫』上演史に一時代を画した。そして指揮者が表に出てくる。「カラヤンの『椿姫』」というように。これもスカラ座の『椿姫』上演の歴史にその名が刻まれている。内容はともかく、前の上演が忘れられないファンによって、大失敗を喫してしまった上演としてだ。そしてオペラに新しい顔が加わる。
 50年ほど前から、演出家はゆっくりオペラ上演のもうひとりの主役になっていった。ポスターに名前が載ったのは遅かったけれど、いまはオペラ上演の鍵になっている。歌手も指揮者も関わるのは基本的に1回の上演であるのに対し、1度演出された舞台は、次に新しく制作する時まで何年も、時には何十年も繰り返される。まるで1つの「作品」のように。ここに目を付けたのが2020年までのスカラ座総裁アレクサンダー・ペレイラで、1シーズンに数多くのオペラを新演出で上演し、それをまるで新作オペラのように扱った。
 振り返ってみれば、「カラスの『椿姫』」は「ヴィスコンティの『椿姫』」でもあった。「カラヤンの『椿姫』」は「ゼッフィレッリの『椿姫』」だ。その次が「カヴァーニの『椿姫』」ということになる。
 眩暈したあとも、スカラ座日本公演の時の「カヴァーニの『椿姫』」は人を驚嘆させた。いや、実はほとんどの人は驚かなかった。カヴァーニのは当時としても斬新ではない、リアリズムを突きつめた演出だから、歌に集中したい人が普通の舞台だと勘違いしても不思議じゃなかったのだ。第1幕でヴィオレッタとアルフレードが恋に落ちる二重唱など、あまりにも密やかで、劇的な変化が起こっているのを、うっかり見過ごしてしまう恐れもあるくらい。
 密やかといえば、第2幕のヴィオレッタとジェルモンの二重唱だって、実に抑制されている。不安から絶望に至るヴィオレッタの変化は、控え目に示される。徹底したリアリズムの演出家であるリリアーナ・カヴァーニは決して誇張しない。強調さえも抑えられる。それだけに、静かに迫ってくるヴィオレッタの悲しみが切ない。
「カヴァーニの『椿姫』」は1990年に制作されている。スカラ座の日本公演にはそれから5年経っている。それでも力を発揮したことに驚く。オペラの演出は、神経質な演出家が「3回までだね。その後は責任が持てない」と言っていたくらいだから、時代の変化を別にしても、そう長くは鮮度を保てないと思われている。それでも長いあいだ繰り返し上演され、「名作」として人気を保っている舞台が、確かにある。
 鍵は歌劇場にありそうだ。オペラの上演は演出家ではなく、制作する歌劇場に属している。何年も前に演出された舞台を保持し、時には手直しをして、その「作品」に命を与えるのは歌劇場の役目なのだ。その保持ができているのかどうかは、その歌劇場の実力にかかっている。歌劇場がほかのどこでもない、ミラノ・スカラ座だったとしたら…‥。
 さて「カヴァーニの『椿姫』」は、2020年も名作として、もう一度NHKホールに姿を現すだろうか?  どうぞ眩暈に御用心を。

2020年9月に8度目の日本公演を開催するミラノ・スカラ座。初来日からおよそ40年、
この間、他の海外歌劇場の引越し公演も数を増し、その舞台も多様を極めています。
そうしたなかで、ミラノ・スカラ座は毎回、日本のオペラ・ファンを「驚嘆」させ続けてきました。
それはミラノ・スカラ座の「凄さ」ゆえ。音楽的な水準の高さはもとより、巨大にして重厚な舞台美術は、観客を圧倒するのです。
ここでは、その舞台を支えてきた二人のキーパーソン、舞台監督の立川好治さんと、
制作全般に深く関わり続けているミラノ在住の演出家、田口道子さんにお話をうかがいました。

“スカラ座の誇り”ーーどこへ行ってもスカラ座の姿を見せたい!

ミラノ在住の演出家、田口道子さん(左)と舞台監督の立川好治さん

 オペラの殿堂として知られ、世界最高峰と讃えられるミラノ・スカラ座の舞台。これまで7回にわたって開催された日本公演でも、世界の頂点を極める指揮者、一流の歌手たちの演奏とともに、豪華絢爛かつ壮大なスケールの舞台が圧倒的な感動をもたらしてきた。
 ミラノ在住の演出家で、スカラ座と縁の深い田口道子氏は、こうした大規模な日本公演が実現した背景には、「スカラ座の誇り」があるという。「彼らには、自分たちはオペラが生まれた国の最高の劇場である、という自負がある。引越し公演だから簡易的な薄っぺらな装置で妥協、などということは絶対にしません。どこへ行っても、スカラ座そのままの姿を見せたいという気持ちが非常に強いのです」(田口氏)。 
 初のスカラ座日本公演が実現したのは、1981年。田口氏は、「オペラ上演の歴史を振り返ると、舞台装置は背景画を描いた書割を吊る方法が使われていて、これはどこの劇場でも使うことができるスタンダードサイズだったのです。1930年代にオペラ演出が生まれ、舞台装置がだんだんに大掛かりなものになっていきました。スカラ座の演出では、1950年代にヴィスコンティが活躍しますが、その後ゼッフィレッリの時代が到来、絢爛豪華で美しい“作り物”を使う舞台が次々と登場したのです」という。初の日本公演で上演されたのは、まさにそのゼッフィレッリ演出による『オテロ』、『ボエーム』を含む4作品だった。
 この日本公演の際に、ストレーレル演出『シモン・ボッカネグラ』の舞台スタッフのチームで仕事をしていたという立川好治氏は、スカラ座の舞台の、想像を超えた規模の大きさ、スタッフの仕事ぶりに驚愕させられたという。
「たとえば、『シモン・ボッカネグラ』で使う柱は15メートルほどもありましたが、それまで我々が大きいと感じていた柱というのはだいたい3、4メートルくらいのもの。15メートルでは日本の劇場に入りませんというと、『なら上部を切って。終わったらまた繋ぐから、きれいに切ってね』と! それで、柱やパネルを散々切って、これでようやく入るとほっとしていたら、『うん、これで1幕は終わった』という(笑)。2幕もこれと同じことをしなくちゃいけないのかと愕然としたわけです。オペラの舞台の奥行きの深さを感じ、これは全く太刀打ちできないと思い知らされました」(立川氏)
 このとき運ばれたのは、舞台装置、小道具、衣裳などを合わせて40フィートのコンテナ約40本、トラックにして約80台分。7年後の1988年の2回目の日本公演では、コンテナ約60本、トラックで約120台分とさらに5割増に。その後の日本公演も、上演演目の数によって増減はあるが、その都度膨大な量の荷物が劇場に運び込まれた。立川氏がもっとも苦戦したという舞台の一つ、2003年の『オテロ』は1演目だけでコンテナ35、36本を使った。「もう、劇場に入らないものばかりです(笑)」(立川氏)。

桁違いのスケールを日本の劇場でどうする!?

2004年改修後のスカラ座の断面図。全面のスライドステージ、舞台後方には舞台と同じ広さをもつバックステージ、その上には合唱のリハーサル室、オーケストラのリハーサル室、バレエのリハーサル室がある。

 仕込みに入ってから初日の幕が開くまで10日かかることも、徹夜での作業が続くこともある。他の主要歌劇場の日本公演と比較しても、格段に規模の大きい舞台だ。桁違いのスケールで作られた舞台を日本の劇場で再現する難しさ──。その根本には、「劇場の機構の違いがある」と二人は力説する。
「20年前の改修によって、現在のスカラ座は地下5階までの、実に大掛かりな機構を備えた劇場になりました。舞台の奥には、もう一つ舞台面を収納できるほどの奥行きがある。そんな機構はこちらの劇場にはない、にもかかわらず、スカラ座のスタッフたちは皆、日本でも最高のものを見せたいという情熱をもって取り組んでいます」と田口氏。
 初の日本公演では、大道具55名、小道具13名、照明15名、衣裳かつらが15名、音響スタッフ等を合わせて合計105名という大所帯で来日したスタッフたち。近年は、日本側との信頼関係が構築されたことで、人数は減少したが、いまも数十人規模のチームで日本にやってくる。
「もともと、劇場が好きで集まっている職人気質の人たちです。仕事をする人たちは、舞台を創るのが大好きだから、徹夜しようがなんだろうが、仕事をすることに生き甲斐を感じていました」(田口氏)。立川氏も、「スカラ座のスタッフは、親の仕事を息子が受け継いでいく世襲が多かった。手仕事の職人の世界です。デジタル化が進み、多くのことをコンピュータで制御するようになり、その雰囲気はずいぶん変わりましたが」と話す。

『トスカ』の舞台装置の製作が進む工房。

『トスカ』に用いられる巨大な装置を仕込み中(ミラノ・スカラ座映像より)

 さらに大きな変化として立川氏が挙げたのは、「装置の骨組みに、鉄を使うようになったこと」。強度はぐんと高まるが、重量はずっと重くなり、搬入、仕込みの課題は増えるいっぽうだ。
 今回の日本公演では、『トスカ』を東京文化会館で、『椿姫』をNHKホールで上演する。「物理的に、『椿姫』の装置は東京文化会館には入らないのです。木で作られた伝統的なセットで、これはもう敵わない、と思うほどですね。『トスカ』は物量的にそれを上回る、かなり大規模なものです」と立川氏。2作品でコンテナ60本、積み方次第でトラック約90台と見積もるが、「たとえば1演目分、トラック45台の荷物を劇場に搬入すると、1台につき1時間、全部搬入するまでどうしても45時間はかかってしまう」(立川氏)。
 実に手間のかかる仕事だが、「1日で仕込みが完了するような薄っぺらなオペラとスカラ座の舞台は全くの別物。老舗の名前、品質を保つために、彼らは大変な努力をしています。歴史と伝統を誇りながら、観客の趣向に合わせて進化していかなければ、と主張してもいますね」(田口氏)。
 スカラ座でしか観ることのできない圧巻の舞台。日本で体感できる日が待ち遠しい。

ミラノ・スカラ座 2020年日本公演

プッチーニ作曲『トスカ』

指揮:リッカルド・シャイー
演出:ダヴィデ・リヴェルモア

【公演日】

2020年
9月15日(火)18:30
9月19日(土)15:00
9月22日(火・祝)15:00
9月26日(土)13:00

会場:東京文化会館

【予定される主な配役】

トスカ: サイオア・エルナンデス
カヴァラドッシ: ファビオ・サルトーリ
スカルピア: ルカ・サルシ

ヴェルディ作曲『椿姫』

指揮:ズービン・メータ
演出:リリアーナ・カヴァーニ

【公演日】

2020年
9月20日(日)15:00
9月23日(水)18:30
9月25日(金)15:00
9月27日(日)13:00

会場:NHKホール

【予定される主な演目と配役】

ヴィオレッタ: マリーナ・レベカ
アルフレード: アタラ・アヤン
ジェルモン: レオ・ヌッチ

【入場料[税込]】

S=¥69,000 A=¥60,000 B=¥52,000 C=¥44,000 D=¥36,000 E=¥28,000 F=¥20,000

U39シート 9/15「トスカ」、9/23「椿姫」 限定 ¥19,000
U29シート ¥8,000
※U39、U29シートは、NBS WEBチケットのみで6/26(金)20時から引換券を発売。