新『起承転々』〜漂流篇VOL.12 バレエ五輪

バレエ五輪

 平昌冬季オリンピックで熱戦が繰り広げられている最中、この原稿を書いている。人類はテクノロジーだけではなく、肉体的にも凄まじい勢いで進化していることを思い知らされる。フィギュアスケートで羽生結弦・宇野昌磨選手が、金銀のメダルを同時に獲得して大いに盛り上がった。冬季オリンピックをテレビで見ながら、東京五輪が2年後に迫っているという実感が沸いてきた。オリンピックはスポーツの祭典であるとともに文化の祭典でもあることは五輪憲章にうたわれているが、いまだ文化プログラムのほうは一般にはほとんど認知されていないように思う。
 フィギュアスケートは「氷上の芸術」と呼ばれ、バレエとの近似性を指摘されることが多い。そもそも19世紀にバレエ教師によりフィギュアスケートにバレエのポーズやステップなどが導入されたらしい。実際、フィギュアスケートの選手で、バレエを学んでいる人は多い。フィギュアスケートの採点基準は技術点と演技構成点に分かれ、演技構成点の中には、「要素のつなぎ」「パフォーマンス」「振り付け」「音楽の解釈」があるが、それはそのままバレエに通じる。フィギュアスケートは採点競技だが、バレエはそうではない。ただバレエコンクールの場合だけは別で、審査員がいて順位がつくから一般に受け入れられやすく、だからマスコミも取り上げるのだろう。フィギュアスケートはスポーツであるが、バレエは芸術と認められている。その違いは何か。先日までハンブルク・バレエ団を率いて日本公演を行っていた芸術監督で振付家のジョン・ノイマイヤーは、「芸術の目的は人間の限界を見せるためではなく、限界の向こう側に何があるか見せることだと思う。色々な可能性があることを示していきたい。」(2018年2月1日讀賣新聞朝刊)と語っている。スポーツは人間の肉体の限界に挑戦するものだが、芸術はその先を想像させるものだというわけだ。バレエは五大陸すべてで行われているグローバルな肉体表現芸術だ。バレエこそスポーツと芸術文化の両方を備えたオリンピック憲章の趣旨を象徴するような存在ではないかと思う。
 “3年に一度のバレエのオリンピック”といわれてきたのが、1976年に始まり今夏15回目を迎える〈世界バレエフェスティバル〉だ。世界的にみても、この種の催しで42年も続いている例はほとんどないだろう。第1回のフェスティバルが終わった後、それに出演していた今は亡き伝説のバレリーナ、マーゴ・フォンテインが、当時の「リーダーズ・ダイジェスト」誌に、「かつてバレエはイタリアの時代、フランスの時代、ソヴィエトの時代と、たえずその中心は動いています。しかし、これからは日本の時代と言われる日がくるものと確信しています」と語って、日本のバレエ関係者を驚かせた。当時はまだ海外からアーティストを招くことは珍しく、海外との通信手段はおもに手紙か電報であり、出演料を払うにしても「日銀ライセンス」と呼ばれていた外貨支払い証明書が必要だった時代のことだ。現在の日本の状況をみると、42年前のフォンテインの予言は外れていなかったと誰しも思うのではないか。いまや海外から来日するダンサーは引きも切らず、東京は世界で一、二を争うバレエ市場になっているが、その牽引車的な役割を担ってきたのが、このバレエフェスティバルといって過言ではないだろう。
 15回という節目を迎える今回も、世界中から綺羅星のようなスターたちが東京に集結する。今回のオリンピックのフィギュアスケートで大いに盛り上がったファンが、バレエに流れ込んでくれないものかと妄想を膨らませている。このところ有料テレビのWOWOWがバレエに力を入れ始めるなど、追い風が吹き始めているように感じる。今夏の〈世界バレエフェスティバル〉が起爆剤になって、一大バレエブームが巻き起こってほしいものだ。このフェスティバルは回を重ねるごとに海外から観にくるバレエファンが増えているが、外国人観光客が急増し、インターネットでチケットがとりやすくなっただけに、今回はこれまで以上に海外からの来場者が増えるのではないかと期待している。公演会場がある上野公園一帯は、美術館や博物館など文化施設が多いが、それらが連携して芸術文化を盛り上げようという上野「文化の杜」が進められている。今回、15回目にして初めて東京文化会館と共催することになったので、この上野「文化の杜」においても何らかの役割を果たせるのではないかと思っている。また、長年フィギュアスケートのスポンサーをされている株式会社コーセーが、今回のスポンサーについてくださるので、フィギュアスケートとうまく連動させバレエを勢いづけたいと思案しているところだ。
 オリンピックをテレビで見ていて思うのは、世界の一流プレイヤーたちが真剣に力の限りを尽くして競技すれば、見るものは必ず感動を覚えるということだ。世界バレエフェスティバルにおいても世界のトップ・ダンサーたちの火花が散る妙技を見れば、肉体表現の限界の向こう側に何があるかが見えてくるはずだ。