本年10~11月に予定しておりましたウィーン国立歌劇場日本公演は、世界的に長引くコロナ禍の影響を鑑み、ウィーン国立歌劇場と協議を重ねた結果、本年の日本公演を見合わせることになりましたことをここに謹んでお知らせ申し上げます。
詳細はコチラのページでご確認くださいますようお願い申し上げます。
コロナ禍に見舞われ、オペラやコンサートに出かける楽しみを奪われた今年も、とうとうあと1カ月余。ウィーン国立歌劇場2021年日本公演の正式発表が行われたことで、心踊らせているオペラ・ファンは少なくないことでしょう。
ウィーン国立歌劇場2021年日本公演の2作『コジ・ファン・トゥッテ』と『ばらの騎士』は、作曲された時代もオペラの様式も異なりますが、実は「ウィーン国立歌劇場日本公演に、この2作がプログラムされた意味は興味深い」、と音楽評論家の堀内修氏。その視点を、2回にわたってご紹介いただきます。
『コジ・ファン・トゥッテ』のフィオルディリージは、ひらりと気持ちを変える。誰がこんな男の言うなりになどなるものか、と思って恋人のところに行こうとしたものの、熱意に負けて「いとしい人よ」と歌い出すまで、ものの5分とかからない。その心変りのなんと優美なことだろう。
第2幕のフィオルディリージとフェランドの二重唱は、心変りの名人モーツァルトのオペラの、白眉というべきではないだろうか。
その優美な身の翻し方に私たちは魅了され、夢中になるけれど、道徳的な19世紀の人たちは、よってたかってこのオペラを非難した。ベートーヴェンもワーグナーも口を極めて罵っている。まあ不道徳には違いない。でも道徳的な優美なんてあるのだろうか?
『コジ・ファン・トゥッテ』
Photo: Silvia Lelli
女は心変りしてはならない! なんていう偏見に異を唱え、心変りこそオペラの真髄だと見抜いたのがリヒャルト・シュトラウスだった。おかげで100年ものあいだ冷遇されてきた『コジ・ファン・トゥッテ』が復権する。いまではモーツァルトの傑作、どころか最高傑作と見なされている。
見事な心変りに舌を巻いたシュトラウスは、謙虚にも、モーツァルトは短い二重唱でやってのけたが、自分にはとても出来ないと言っている。自分にできるのは一つのオペラ全部で、変わる心を描くことだというのだ。その通り、シュトラウスが実現したのが『ばらの騎士』だった。この、モーツァルトの時代のウィーンを舞台にしたオペラで、シュトラウスはモーツァルトへの敬意と、自分自身の芸術家としての矜恃を明らかにしている。
元帥夫人の若い愛人オクタヴィアンは、幕開けから元帥夫人に夢中で、この気持ちは変わるはずがないと思っている。だが第2幕でソフィーに会う。オクタヴィアンの心は動き、心苦しく思いつつも、第3幕でついに元帥夫人からソフィーに気持ちを移す。タイトル・ロール(ばらの騎士を務めるのはオクタヴィアン)だけに、健全な心変りではないだろうか。ソフィーも、貴族に憧れ、身分のために結婚しようとしているが、オクタヴィアンと出会って愛に目覚める。
『ばらの騎士』オクタヴィアンとソフィー
Photo: WIENER STAATSOPER-Michael Poehn
もちろん心変りのオペラとしての『ばらの騎士』の主役は元帥夫人だ。最初から、元帥夫人はオクタヴィアンの愛が長く続くはずがなく、別れる日がくるのが近いと感じている。そしてついにその日が来る。だから、変わるのは心ではなくて、彼女が生きている「時」そのものなのだけれど、オペラは時によって変わるほかない元帥夫人の心の奥に到達している。第1幕のモノローグや第3幕の三重唱で。
元帥夫人が若い恋人たちから静かに去って『ばらの騎士』はウィーンのオペラになった。『コジ・ファン・トゥッテ』のフィオルディリージや『フィガロの結婚』の伯爵夫人に、後を継ぐべきヒロインが生まれ、ウィーンのオペラの本流となる川が流れ出した。
ウィーンの街にドナウ川が欠かせないように、ウィーンのオペラには優美に心変りするヒロインが欠かせない。
堀内 修 音楽評論家