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Photo: Kiyonori Hasegawa

2021/11/03(水)Vol.433

追悼・エディタ・グルベローヴァ
2021/11/03(水)
2021年11月03日号
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オペラ

Photo: Kiyonori Hasegawa

追悼・エディタ・グルベローヴァ

偉大にして愛らしいプリマドンナ
グルベローヴァとNBSの絆

日本時間10月19日早朝、エディタ・グルベローヴァの訃報が報じられました。ニュースに続いてウィーン国立歌劇場をはじめとする数々のオペラハウスから、偉大なプリマドンナへの哀悼の意が公式に発表されましたが、最も早かったのがミラノ・スカラ座のFacebookだったことに「あれっ!?」と感じたファンもいたかもしれません。グルベローヴァの輝かしく偉大なキャリアは1970年のデビュー以来、ウィーン国立歌劇場とともに思いおこされることが多いはずなのに......と。でも、現スカラ座の総裁ドミニク・マイヤーが昨年夏までウィーン国立歌劇場総裁であったことを考えれば、当然といえば当然だったと納得できます。グルベローヴァがウィーン国立歌劇場で最後の舞台に立った2015年10月23日も、劇場に別れを告げた2018年6月23日のガラ・コンサートのときも、総裁として彼女を讃えたのはマイヤーだったのですから。

グルベローヴァの歌唱の素晴らしさを偲ぶ追悼特集は音楽紙に譲ることにして、ここでは日本のファンの皆さんとグルベローヴァとの"橋渡し役"となったNBSならではのエピソードをご紹介してみましょう。毅然としたプリマドンナでありながら、驚くほどの愛らしさや素朴さを間近で見て来られた通訳の松田暁子さんにお話をうかがいました。

「最も印象深いことの一つに、2003年の『ノルマ』があります。佐々木さん(NBS創立者)の古希のお祝いのために、初めて歌いますっておっしゃったんです。このときのことはすでに佐々木さん自身の本にも書かれていてご存じの方は多いと思いますが、それにはもう少し続きがあって、このときはブラチスラヴァの合唱団(スロヴァキア・フィルハーモニー合唱団)が共演しました。グルベローヴァさんはこれをとてもとても喜んでいらしたんです。合唱団の中に、グルベローヴァさんと若いころに一緒に学んだ方がいらっしゃって、旧交をあたためられる時間を過ごされたんです。グルベローヴァさんからのプレゼントに、佐々木さんがお返しをした、というところでしょうか。そうした強い信頼関係が、グルベローヴァさんとNBSには築かれていたということですね」
それから2年後の2005年、グルベローヴァさんはウィーン国立歌劇場で『ノルマ』の舞台に立ちました。このとき、佐々木はウィーンに出かけ、当時の総裁イオアン・ホーレンダー氏に"日本で私のために初めて歌ってくれた"と自慢したとかしなかったとか......。

 
 
「2003年『ノルマ』演奏会形式
Photos: Kiyonori Hasegawa

グルベローヴァとNBSとの関わりは1980年ウィーン国立歌劇場から2012年まで、歌劇場の引越し公演とリサイタルの計20回を数えました。32年間とはいうものの、実は初来日以来2度目の実現は7年後のこと。これには1980年日本滞在中に起こった地震(9月25日千葉県北西部で地震 - マグニチュード6.0-6.1、関東地方と静岡県で最大震度4、死者2人)への恐怖が影響していたそうです。それゆえ、グルベローヴァは常にホテルでは低層階に滞在していました。一軒家のゲストハウスに滞在したときも、「地震が起きたらこの窓からすぐにお庭に出られます」とスタッフが言うと、安心した様子だったそうです。

『ナクソス島のアりアドネ』ツェルビネッタ役は、1980年の初来日と2000年にウィーン国立歌劇場日本公演で演じた。
 
 
 
1987年日本での初リサイタルのプログラム表紙 初来日から7年後、ようやく2度目の来日が実現した。

グルベローヴァが"怖れた"ものはもう一つあります。ヨーロッパと日本を移動するには避けることのできない時差による影響です。「私は眠れないときちんと声が出ないの、とおっしゃって」と松田さん。晩年は特にご自身も周囲も気を配っていたとのこと。飛行機ではなくシベリア鉄道なら大丈夫なのでは? などという案まで出たとか......。冗談はともかく、グルベローヴァの"時差ボケ"対策の強い味方となったのは都内某ホテルのスペシャル・トリートメントだそうです。マサージを受けながら、自然な眠りを誘うヒーリングのような効果のあるものだそうです。

世界の頂点に君臨するプリマドンナでありながら、慎ましやかな面をもったグルベローヴァ。「日本のファンからのプレゼントに付けられたリボンはすべてきれいに延ばしてチューリッヒの自宅に持って帰られていました。お嬢さんがなにかにリボンを、とおっしゃるとすぐに、はいこれがあるわ、と言って渡されたそうです」

オペラやコンサートでの、すべての人を圧倒する歌唱はいうまでもありませんが、あるリサイタルでのこと。「アンコールで『ホフマン物語』のオランピアの歌を歌う時に、舞台の袖で自分でほっぺに赤い紅をポンポンとつけて、髪の毛をちょこんと縛って、これでいいわ! ってステージに出て行かれました。ささっとご自分でやってしまうのを、私たちはただただキョトンと見ているばかりでした」
ーー私はいつも歌を楽しんでいます。これは私が生まれた目的ですーー グルベローヴァが雑誌のインタビューに答えたこの言葉が思い出されます。

グルベローヴァの日常については、「まるで修道女のような生活ね、と笑顔でおっしゃったことを覚えています。舞台で歌った翌日は失われた日(疲れを休めるため)、その後の2〜3日はあまりおしゃべりしちゃいけないのよ、と。日本滞在中も、体調や声を護るためにほとんどホテルから出ずでしたが、ご自宅ではお庭いじりをするのが好きで、日本のもみじもあるのよ、とおっしゃっていました。日本食もお好きで、天ぷらやお刺身がお気に入りだったでしょうか」

グルベローヴァを、初来日の"地震の恐怖"から"親日家"へと変えたのは、日本のファンの温かさであったでしょう。その日本のファンの前に彼女を紹介することができたNBSは、幸福な出会いをもたらしたという意味で、少なからず貢献できたのではないでしょうか。天上では、再び佐々木忠次がグルベローヴァを迎えての企画を練っているかもしれません。 たくさんの感動を与えてくれたことへの感謝とともに、謹んでご冥福をお祈りします。

1996年フレンツェ歌劇場日本公演
『ランメルモールのルチア』
Photo: Kiyonori Hasegawa
フィレンツェ歌劇場からNBSに贈られたグルベローヴァが着たルチアの衣裳
 
来日リサイタルより
2000年V.カサロヴァとのデュオ・リサイタル
Photo: Kiyonori Hasegawa
2004年ウィーン国立歌劇場日本公演
『ドン・ジョヴァンニ』
Photo: Kiyonori Hasegawa
2008年ウィーン国立歌劇場日本公演
『ロベルト・デヴェリュー』(演奏会形式)
Photo: Kiyonori Hasegawa
2011年バイエルン国立歌劇場日本公演
『ロベルト・デヴェリュー』
Photo: Kiyonori Hasegawa