NBS News Web Magazine
毎月第1水曜日と第3水曜日更新
NBS日本舞台芸術振興会
毎月第1水曜日と第3水曜日更新
Alessandra Ferri in L Heure Exquise  <br>photo by  Silvia Lelli.jpg

2021/11/17(水)Vol.434

アレッサンドラ・フェリ、
ベジャール作品を踊る
2021/11/17(水)
2021年11月17日号
TOPニュース
バレエ

Alessandra Ferri in L Heure Exquise
photo by Silvia Lelli.jpg

アレッサンドラ・フェリ、
ベジャール作品を踊る

先頃の世界バレエフェスティバルでベジャールがイヨネスコの戯曲に想を得て創作した『椅子』を踊り喝采を浴びたアレッサンドラ・フェリが、この10月には英国ロイヤル・バレエ団デビュー40周年記念公演として、ベケットを原作としたベジャール作品に取り組みました。舞踊ライターの實川絢子さんによるレポートをお届けします。

今のフェリだからこそ表現できるダンス作品、それが『L'Heure Exquise(恍惚の時)』

「歳を重ねていくことは、美しく、尊いこと」――そう言い切れる今のアレッサンドラ・フェリだからこそ表現できるダンス作品、それが『L'Heure Exquise(恍惚の時)』だ。アーティストとしての今の自分に相応しい、これまで踊ったことのない役を探していたというフェリは、モーリス・ベジャールがカルラ・フラッチのために23年前に振り付けたこの演劇的な作品にめぐりあい、ロックダウン中から日々発声練習に取り組んで準備を進めてきた。

原作のサミュエル・ベケットによる戯曲『しあわせな日々』では、50代の主人公が砂の中に腰まで埋まっている設定だが、ベジャールによるこのバレエ作品は、往年のバレリーナが2000足以上あるトウシューズの山に腰まで埋まっているという、強烈なイメージとともに幕を開ける。目覚まし時計が鳴り、朝のお祈りを唱えると、〈いつも通り〉の1日の始まりだ。積み上げられたトウシューズの中から出てきた女はとりとめのないおしゃべりをしながら、シューズにリボンを縫い付けるなど、彼女にとっての毎日の儀式のような動作を淡々とこなしていく。

客席に背を向け、ギターを爪弾いたり新聞を読んだりしているのは、ハンブルク・バレエ団の元プリンシパル、カーステン・ユング演じる彼女の夫。ほぼ終始寡黙で、トウシューズを履くよう促したり練習用のバーを出したりと、夫というよりは彼女が踊るのを健気にサポートする忠実な崇拝者のようでもある。

カーステン・ユングとアレッサンドラ・フェリ
Carsten Jung and Alessandra Ferri in L Heure Exquise photo by Silvia Lelli

トウシューズは、その一足一足が彼女の過去を象徴する存在。「思い出した!」と言いながらジュリエットの音楽を口ずさみ、シューズの硬さを確かめて「まだ2幕も踊れそうね」とつぶやいたり、シルフや白鳥のポーズを取ってみたりするが、うまく思い出せずに眉を顰める女の姿に、かつてそれらの役で観客を魅了したフェリ自身の姿をまったく重ねずに見ることは難しいだろう。

裸足で、そしてトウシューズで踊るフェリは、まるで何か魔力があるかのように私たちを魅了する。しなる足、高い甲からつま先にかけての美しいフォルムは健在で、同時に小さな劇場だからこそ目に入る、足のたこや皮膚に刻まれた皺などのこれまで重ねてきた年月の証しが、神々しささえ感じさせる。

2幕では、原作の主人公は首まで地中に埋もれている設定だが、バレエ版では再びトウシューズの山に腰まで埋もれた女が、ロマンティックチュチュを首から被って登場する。シルクハットと燕尾服を纏った夫とともに踊る彼女は、幸せだった新婚の頃を思い起こしているのだろうか。「ああ、幸せな1日」と繰り返す時の天真爛漫な笑顔や、記憶が途切れた時の曇った表情、そしてハンドバッグから銃を取り出した時の狂気の目――くるくると変わるフェリの表情が、口から語られる言葉よりも多くを物語る。

カーステン・ユングとアレッサンドラ・フェリ
Carsten Jung and Alessandra Ferri in L Heure Exquise photo by Silvia Lelli

断片的な記憶の中に幸福を見いだしながら、現実は過去に囚われて文字通り身動きできず、死と隣り合わせの狂気を孕んだ女。「メリー・ウィドウ・ワルツ」をフランス語で口ずさむ姿は、どこか滑稽で哀しく、痛々しい。その一方で、「過去に踊った役を踊ってかつての自分と比較するのはナンセンス。もうチュチュを着ようとも思わない」と断言し、チュチュを首から被って新しい役に挑戦するフェリ自身には、愛とユーモアをもって過去を超越する強さがある。

カーテンコールでは、ロイヤル・バレエ団のケヴィン・オヘア芸術監督が花束を持って登場し、コヴェント・ガーデンでのデビューから40周年を迎えたフェリの功績を称えた。強さと脆さ、美しさと醜さ、生と死。歳を重ねていくことのアンビバレントな側面を丸ごと、しかも繊細に表現することができるダンサーはそうはいない。次にこの作品を踊れるダンサーが現れるのはいつになるだろうか。

10月16日、ロイヤル・オペラハウス内リンバリー劇場、實川絢子(在ロンドン 舞踊ライター)