2025年2月、モーリス・ベジャール振付『くるみ割り人形』が上演されます。よく知られたクリスマス・イヴのクララの物語ではない、"もうひとつの"『くるみ割り人形』。ベジャールが自身を投影したというこの作品の魅力を、ダンス評論家の上野房子さんに紹介してもらいました。
20世紀はバレエの時代だと高らかに宣言し、バレエを20世紀仕様の芸術に一新させた振付家モーリス・ベジャールの『くるみ割り人形』が、7年ぶりに東京バレエ団に戻ってくる。
あのベジャールがホリデー・シーズンの定番を振付けた?――と首を傾げることなかれ。古典バレエの枠組みを楽々と乗り越えたベジャールだからこそのサプライズ満載の作品に練り上げられているのだ。
チャイコフスキーの耳慣れた序曲に続いて、生前のベジャールの映像がモニターに映され、クリスマスの思い出を、少々、たどたどしい日本語で語り出す。クリスマス・ツリーのかたわらにしゃがみ込んでいる少年の名前は、ベジャールの幼少時の愛称だった〈ビム〉。ベジャールが子供時代を回想するにつれ、寂しげな様子だったビムの表情が輝いていく。
第1幕 「行進曲」にのせたダンスレッスン
Photo: Kiyonori Hasegawa
ベジャール版『くるみ割り人形』は、19世紀のロシアで初演された、少女クララ(ロシアではマリー、マーシャとも称される)が聖夜の夢の中でお菓子の国を訪れる物語ではなく、少年ビムの夢を描いたファンタジーなのである。
ビムの母(政本絵美)
Photo: Kiyonori Hasegawa
するとベジャールが7歳の時に死別した母が、大きなプレゼントを持って現れる。本作の根底には母への思慕があり、「大きくなったらママと結婚するんだ」とさえ思っていたビムは、〈母胎回帰〉さながらに巨大なヴィーナス像によじ登り、随所で母と踊り、彼女の美しさを讃え、幸せに満ちたひと時をすごす。「モーリス・ベジャール自伝---他者の人生の中での一瞬...」(1982年)の記述を彷彿させる魅惑的な姿の亡き母とビムの束の間の再会は、美しくも切ない。
母の面影を求めてビーナス像によじ登るビム
Photo: Kiyonori Hasegawa
母の没後、ビムは新しい愛に出会う。ベジャールのナレーションいわく、「しばらくして僕はバレエと結婚した」。バレエへの愛がもう一つの縦糸となり、ドラマを押し進めていく。
狂言回しの役割を果たすのは、マリウス・プティパのイニシャル〈M〉を冠した黒衣の男性〈M...〉。ベジャールと同じくマルセイユ生まれのプティパは、ロシアのマリインスキー帝室劇場で『くるみ割り人形』(振付者はレフ・イワーノフだが、プティパが作品の構想を練ったとされている)を始めとする古典的作品を次々と生み出した、ロシア・バレエの育ての親と呼ぶべき人物だ。
14歳の時にバレエを始めたベジャールは、数年後、ロンドンのインターナショナル・バレエでプティパの助手だったニコライ・セルゲイエフの指導により上演したプティパの全幕作品に出演、『白鳥の湖』に主演したこともある。若き日のベジャールはいわばプティパの孫弟子になり、師の作品を自らの血肉にしていった。
ゆえに〈M...〉はプティパを思わせる教師に変身してビムにバレエを手ほどきし、ビムと協力して彼の母を楽しませるための踊りを演出し、ベジャールが目指していただろう、バレエ教本から抜け出したかのように端正な踊りを披露する。
原典の翻案も絶妙で、クリスマス・パーティーで老若男女が踊りに興じる場面はバレエのレッスン風景になり、夜半、おもちゃの兵隊とネズミの軍団が戦う場面や雪の精達が乱舞する場面では、ドラァグクイーン顔負けのド派手な衣裳を着けた髭面の〈光の天使〉が妖しげにうごめき、暗闇に光をもたらす。お菓子の国に相当する第2幕、ロシアや中国などの各国舞踊の意外性たっぷりの演出は、ベジャールのナレーションを耳にすれば、なるほど!と合点がいくだろう。
第1幕に挿入されたお茶目な寸劇は、子供時代のベジャールが夢中になり、自ら演じた「ファウスト」を再現したもの。ビムと共に寸劇を賑やかす〈M...〉は、もちろんメフィストの象徴だ。この寸劇は、哲学者だった父ガストンの蔵書を子供時代から読み漁り、後年、哲学や思想を自在に語ることになる振付家ベジャールの原点と言えよう。
第2幕、「葦笛の踊り」の音楽で楽しく踊る、フェリックス(宮川新大)と仲間たち。
Photo: Kiyonori Hasegawa
また別な愛が本作に織り込まれていることも忘れてはならない。猫への愛情だ。子猫を抱いた公式ポートレートからも分かる通り、ベジャールは愛猫家で(写真の子猫たちはベジャールの没後、新たな飼い主に引き取られたそうだ)、独自のキャラクター、猫のフェリックスが胸のすく美技を繰り出して舞台を駆け巡る。モーリス・ベジャール・バレエ団の小林十市以下、卓越したテクニシャンが踊り継いできた役柄で、今回の公演では、アメリカン・バレエ・シアター他を経て、現在はニューヨークを拠点に映像作品にも関わっているダニール・シムキンの客演が予定されている。
そして原振付に則ったグラン・パ・ド・ドゥが踊られ、夢の場面はクライマックスを迎える。かりそめの宴が終わった時にビムが浮かべる表情は、舞台で確かめられたい。
「花のワルツ」の音楽でビムは母と踊る。
Photo: Kiyonori Hasegawa
かくして『くるみ割り人形』は、ベジャールの手を経て、イマジネーション豊かなファンタジーに生まれ変わった。チャイコフスキーの甘美な楽曲にのせた踊りの数々は、古典バレエのディヴェルティスマンに準じた見せ場としても、別個の踊りとしても楽しめる。ベジャールが振付家として地歩を固める以前の日々を垣間見て、彼の人生をノスタルジーをまじえて俯瞰することもできる。肩肘張ることなく、人生における愛の何たるかを問いかける作品なのかもしれない。
3Dの万華鏡のように様々な情景を見せてくれるベジャール版『くるみ割り人形』。幕が降りた時、あなたの心には何が響くのだろうか。
なお、本作の指導にあたる元モーリス・ベジャール・バレエ団芸術監督のジル・ロマンが公演にも特別出演し、2022年5月に逝去した東京バレエ団の飯田宗孝前団長へオマージュを捧げる運びとなった。詳細の発表は来年1月半ばを予定しているとのことだ。
上野房子 ダンス評論家