NBS News Web Magazine
毎月第1水曜日と第3水曜日更新
NBS日本舞台芸術振興会
毎月第1水曜日と第3水曜日更新

2021/05/06(木)Vol.421

新「起承転々」 漂流篇 vol.51 一期一会
2021/05/06(木)
2021年05月06日号
起承転々
連載

新「起承転々」 漂流篇 vol.51 一期一会

一期一会

 3度目の緊急事態宣言が4月25日に発出された。ゴールデンウィークに予定していた〈上野の森バレエホリデイ〉を控え最後の準備に追われていたが、首相の一言で木っ端微塵に吹き飛んでしまった。劇場は国内外での飛沫感染の実証実験によって、安全というエビデンスが認められていると思っていたので、よもや公演中止ないし無観客での公演になるとは思いもしなかった。幸いにも予定していた公演は中止ではなく、6月18日―20日に延期することができた。昨年の〈上野の森バレエホリデイ〉も"ステイホーム"で中止を余儀なくされたが、新型コロナウイルスが社会問題になって15カ月も経つ。変異種の出現はあったにしても、いまだに病床が逼迫して医療崩壊が危ぶまれているが、この間にもっと打つ手があったのではないか。我々の舞台芸術の世界も「不要不急」とよばれて劇場に観客が戻らず、財政的に逼迫して崩壊寸前だ。
 コロナ禍が始まって以来、賽の河原の石積みをくり返しているような気持ちになっている。石を積み上げては鬼(コロナ)によって崩され、何度も気を取り直して石を積むのだが、さすがに1年以上も続くと気力が萎えてしまう。今回の緊急事態宣言は人流を抑えるのが目的だというが、駅や繁華街の人流が減っているとは思えない。劇場への人流はたかが知れている。政府や東京都が東京オリンピック・パラリンピック開催を優先する姿勢が透けて見えて、どんどん一般の国民の感情とズレてきているのではないか。
 朝刊をめくっていたら日本経済新聞(4月25日)の「春秋」欄にあった「第3の『敗戦』」という文字が目に突き刺さった。「病床やワクチンの確保で対応のまずさや出遅れが目立ち、太平洋戦争、バブル崩壊に続く第3の『敗戦』だと見る向きも出てきた。軍事、経済、医療と分野こそ違うが、3度の敗戦には共通項がある。縦割りの弊害、根拠なき楽観、科学の軽視、始めたらやめられない組織」だという。3度目の「敗戦」と言われると、いま我々が直面している事態がとてつもなく深刻なのだとあらためて気づかされた。2度の敗戦は政治の舵取りの失敗だったと思うが、3度目もそうかもしれない。1964年の1回目の東京オリンピックは、経済が急成長して日本が国際的に認められる契機になったが、今夏の東京オリンピック・パラリンピックの成り行きによっては、日本は先進国の地位から転げ落ちることになるのではないかと心配だ。
 コロナ禍の嵐の中、今年も〈東京・春・音楽祭〉が開催されたが、予定していた演奏会のうち3分の1が中止に追い込まれたらしい。海外から来るアーティストのきびしい入国規制があるからだが、同業者として中止せざるを得ない無念さと実現に至るまでの困難さは容易に想像できる。リッカルド・ムーティ指揮の『マクベス』演奏会形式は開催されたが、実現に漕ぎつけた関係者のご努力を思うと頭が下がる。私も『マクベス』を聴いたが素晴らしい出来だった。ムーティが指導する若い音楽家たちのリハーサルの様子が6日間にわたってネットでライブ配信された。ムーティのきめ細かい指導の成果が見事に発揮され、観客はブラボーを禁じられていたこともあって、カーテンコールでは総立ちで熱い拍手を送っていた。この『マクベス』もライブ配信された。コロナ禍によってストリーミング配信が急速に普及し、コロナ禍収束後も定着するのだろうが、生の舞台に代わるものではないと私は思っている。
 〈東京・春・音楽祭〉のプログラム誌に載っていたムーティの文章を読んで感銘を受けた。少し長くなるが引用させていただく。「何度も聴いたことがある曲でも、何度も観たことがあるオペラでも、その日に何が起こるのか、どのような演奏になるのかわからないのだ。そのような緊張感をもって観客は席に座る。その緊張感や期待は演奏者に伝わってくる。つまり、演奏者は観客と一体になり、観客は演奏者の一部になる。それが観客にとって、生の演奏を会場で聴く最高の喜びとなる。演奏家にとっては、観客の感動や興奮を感じることで、より素晴らしい演奏へと導かれるのである。観客と直接つながっているという意識のもと、演奏者も俳優もダンサーも、より優れた能力を発揮できると言えるだろう。今後もストリーミングの技術は発展するだろうが、劇場で生の演奏に触れる経験は、決して失くしてはならないと思う。木から根を取り去ってしまったら枯れてしまうのと同じことである。演奏家にとって根は観客なのである。我々演奏家は観客に精神的な糧をもたらすことができるよう努めている。そして観客は感動や興奮で、時に満足がいかない演奏の場合は、期待外れの落胆の反応で、我々演奏家に応えてくれる。このような直接的関係は決して絶たれてはならない」(田口道子訳)
 長引くコロナ禍でさまざまな舞台映像が溢れるほどに配信されたが、そのうえで分かったのは生の舞台がいかに貴重かということだ。そして、明確になったのは舞台芸術が出演者と観客が一緒になって創り上げるものであるということだ。舞台には観客の呼吸と熱気が必要だ。劇場はそこに集った観客と出演者たちが同じ緊張感や高揚感を共有し、喜びや怒り、哀しみや楽しさを分ちあう、人生を映し出す鏡のようなものだ。舞台は一期一会であり、どの舞台も毎回違うもので生涯に一度きりの体験なのだ。ストリーミングの利点はたくさんあるが、生の舞台とは別物であって、生の代替品にはなりえない。ストリーミングは舞台の「かたち」を数万人に伝えることはできても、「たましい」まではなかなか視聴者に届かないように感じる。呼吸や熱気の交感が伝わらない。マエストロが言うように演者にとって観客は「根」であって、それなくしては枯れてしまうのだ。長いコロナ禍を通して得た教訓として、我々は劇場でしか味わえない魅力や生の舞台の貴重さや価値をもっと広く訴えなければならないとあらためて感じている。

 

髙橋 典夫 NBS専務理事