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2022/03/02(水)Vol.441

新 起承転々 漂流篇 vol.61 仮想と現実
2022/03/02(水)
2022年03月02日号
起承転々
連載

新 起承転々 漂流篇 vol.61 仮想と現実

仮想と現実

 2月中旬、東京バレエ団の「白鳥の湖」公演のため連日上野の東京文化会館に通っていたので、近くの東京国立博物館で開催されていた「ポンペイ展」を覗いて見た。「ポンペイ展」に惹かれたのは、1982年に東京バレエ団がナポリのサンカルロ歌劇場で1週間公演したとき、その合間をぬってバスを仕立ててバレエ団全員でポンペイ遺跡を訪れたことがあったからだ。荒廃したような遺跡の中にたたずんで、2000年前からこれほど高度な文明をもっていたのだと、感慨にふけったのを憶えている。
 ポンペイはいまから1943年前の西暦79年にヴェスヴィオ山の大噴火で発生した火砕流によって地中に埋もれてしまった都市だ。いまだに発掘が続けられているが、まさに「タイムカプセル」で、当時の人々の生活空間がそのまま封印されている。浴場や円形競技場、劇場などもある。当時から都市には劇場があったのだ。演じる人がいて、それを見る観客がいるのは、今も昔も変わらない。ポンペイは裕福な都市だったが、2000年近い時空の隔たりがあっても、現在に通じるものがたくさんある。「ポンペイ展」の展示を見て、時間の迷宮に入り込んだような不思議な感覚にとらえられた。我々は過去から学ばなければならないことがたくさんあるのではないか。歴史の前には謙虚にならなければならないと思った。
 思いをめぐらせていると、劇場文化の歴史の重みを肌で感じた記憶が蘇ってきた。東京バレエ団が1996年にアテネの古代劇場ヘロド・アティクス音楽堂に出演したときのことだ。この劇場は1860年前につくられたもので、5000人収容する野外劇場だ。すり鉢状の客席から見上げるとライトアップされたパルテノン神殿が見える。悠久の昔から続く観客のさんざめきが聞こえてくるようだった。人間には「祝祭」が必要であり、人々は生の歓びを求めて劇場に足を運んだ。劇場文化は紀元前から脈々と続いているのだ。
 ヴェスヴィオ山の噴火から2000年近くが経った今、人類の進化のスピードはますます速くなっている。ITやAIが加速度的に進化している。最近話題を集めているのがメタバース(仮想空間)だ。「フェイスブック」が社名を「メタ」に変えたことから、急に注目を集めるようになった。コロナ禍でリアルに制限が課せられたため、バーチャルへの移行に拍車がかかったという面もあるだろう。人々が集まることを避けるようになったことから、会合もリモートが当たり前になってしまった。
 メタバースとはインターネット上に構築された仮想空間であり、アバターと呼ばれる自分の分身を介してその世界(仮想空間)に入り、他の利用者とコミュニケーションをとることができるものだ。買い物ができるサービスを展開している場合もあり、さまざまな活用方法が新しく生まれると考えられているようだ。これまではゲーム中心だったが、会議やコンサートなど、「ネット上の空間に人が集まることで価値が生まれるサービス」の初期的なかたちが、すでに生まれているそうだ。
 私はまったく先端技術には疎い人間だが、メタバースに興味をもったのは、仮想空間上でイベント会場やコンサート会場を設けることができると知ったからで、それならオペラハウスだって簡単につくることができるのではないかと考えた。NBSの創設者の佐々木忠次は最期まで、自前の自由に使える劇場をもちたいと望んでいた。私もその思いを継いで、さまざまな方面に働きかけたが、いまなおオペラやバレエが上演可能な新しい劇場ができる見込みはない。現実の世界で叶わないなら、メタバースに望みを託すほかない。メタバース市場は今後急速に拡大するといわれていて、すでにデジタル世界の土地を買って一儲けしようというような動きは始まっているようだ。自分のアバターをもち、そのアバターが着飾って劇場に出かけ、佐々木好みの金と赤の壮麗なロココ風の客席からバーチャルなフレーニとパバロッティのオペラ、フォンテインとヌレエフのアバターによるバレエを観られる日が来るのかもしれないのだ。
 コロナ禍でリアルとバーチャルの問題が取り上げられることが多くなった。リアルは肉体を伴う現実のことであり、バーチャルは実体を伴わない疑似的なものだ。コロナ禍で行動が制限されたことで明確になったのはリアルの貴重さだ。ライブ公演の価値も再認識された。メタバースはこれとは逆の動きだと思うが、メタバースがこれから先どう進化するかと考えると恐ろしくもある。
 2000年前のポンペイの時代から見れば、現在はまったく想像もつかない世界だろう。同様にこれから2000年先のことを誰も想像できないだろう。ポンペイの遺跡とメタバース。時空を超えた2つが私の心の中で交錯したことから、古代から未来へ、奇しくも人類の果てしない進化に思いを馳せる機会を与えられた。
 今回のコロナ・パンデミックによって、世界がリアルからバーチャルへ大きく舵を切ったように感じているが、それに伴い劇場を取り巻く環境も急激に変わろうとしている。古代から続く劇場文化は、人間が人間であるために必要だったのではないかと思う。
 現実に立ち返れば、上野水香が踊った「白鳥の湖」のカーテンコールは、全員総立ちのスタンディング・オベーションだった。コロナ禍で「ブラボー!」の掛け声は禁じられているものの、熱のこもった拍手が客席中を満たした。2000年前も今も、劇場は人々が集い、感動を共有する場なのだ。人々の心を癒し、生きる活力を与えてきた。この価値観だけは未来永劫変わらないと信じたい。

髙橋 典夫 NBS専務理事