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2022/06/01(水)Vol.447

新 起承転々 漂流篇 vol.64 さらば、キューピー!
2022/06/01(水)
2022年06月01日号
起承転々
連載

新 起承転々 漂流篇 vol.64 さらば、キューピー!

さらば、キューピー!

 東京バレエ団の団長だった飯田宗孝のお別れの会を去る5月29日、東京バレエ団のスタジオで催した。たくさんの方々が参列してくださったのは、誰に対しても優しい彼の性格と舞台での存在感があったからだと思う。このコラムでは舞台芸術の世界が直面している現状や課題を取り上げることを心掛けてきたつもりだが、今回、何を書こうかと思いをめぐらせても、飯田宗孝のこと以外どうしても思い浮かばない。私自身、飯田とは40年に及ぶ付き合いだから、64歳という若さで逝った盟友の死に打ちのめされ、まだ心の整理がつかないでいる。
 飯田の人生は、舞台人としてはモーリス・ベジャール、実人生では東京バレエ団の創立者・佐々木忠次との出会いなくしては語れない。飯田はキャリアのはじめがショーダンサーという変わり種だったが、いまと違って男性バレエ・ダンサーが少なかった時代のことだ。ショーダンサーとしての経験が彼の個性になり、ベジャールに認められて才能が花開いた。飯田の踊りの表現をベジャールが気に入ってくれたのだ。ベジャールが「ザ・カブキ」の定九郎を振付けたとき、ベジャールから「お前は役者だから、あえて動きを少なくした」と言われたという。たしかに飯田は若いときから舞台での存在感があった。
 飯田は優しく細やかな神経をもっていたから、佐々木は彼をそばに置いた。佐々木もベジャールも「キューピー」と呼んで彼を可愛がった。舞台での存在感と違って、ふだんはけっして自己主張しなかった。いつも佐々木のもとに飯田がいたから、私にとっても身近な存在だった。私も「キューピー」と呼んでいたが、彼が芸術監督になったのを機に、さすがに人前で「キューピー」と呼ぶのを控えた。しかし、私の中では彼は永遠に「キューピー」だ。
 佐々木忠次とベジャール、この2人との出会いがなければ、飯田の人生はまったく違うものになっていただろう。飯田はダンサーとして活躍する一方、佐々木からクラスを教えろと言われてバレエ教師になった。いやだ、いやだと言いながら、アンシェヌマン(動きの組み合わせ)を考え、それをノートにびっしり書き込んでいた。教師になったことが、指導者への道を切り拓いた。その後、バレエ・マスターになり、2004年から溝下司朗の後を継いで芸術監督になった。そして、2015年に斎藤友佳理が芸術監督に就任したのを機に、佐々木の後をうけて東京バレエ団の団長とバレエ学校の校長というポジションについた。はからずも次々に重責を担うことになったが、彼にとってプレッシャー以外の何ものでもなかったのではないか。アルコールを飲む量が増えていったのはストレスからきていたに違いなかった。少しずつ命を削っていたのだ。
 飯田は5月7日の未明に亡くなったが、その1週間前に佐々木忠次の七回忌があった。佐々木は7年間、自宅で病の床に臥せていたが、最期まで佐々木の世話をしたのが飯田だった。飯田は3月末から入院していたが、それまでは東京バレエ団のクラスを教えていた。5月9日に団員全員を集めて私から訃報を伝えると、ショックのあまり団員たちはパニック状態に陥った。飯田の体調が悪そうだとは感じていても、死に至る病を抱えていたとは誰も思っていなかっただろう。突然、飯田は現役のまま天国に旅立ってしまったのだ。
 癌が見つかったとき、私は本人から知らされた。2年以上前のことだと思う。目に涙をためながら「ステージ4なんだ」と彼は言った。悔しかったと思う。私も動揺のあまり、「遅かれ早かれみんな死ぬんだから、それまでは精一杯生きるしかないじゃない」と妙な慰めの言葉をかけたのを憶えている。それからの飯田はつねに死を意識しながら生きていたと思う。金森穣氏が「かぐや姫」第1幕を創るにあたって、飯田を翁役にキャスティングした。飯田はとてもできないと言って私に相談してきたが、目標があった方がいいから引き受けたらと勧めた。結局、飯田は翁役に取り組むことになったが、昨年10月に初演を終えた後の気持ちを私は確かめていない。やってよかったと思ってくれているに違いないと信じている。
 飯田は築地の病院に定期的に通院していたが、3月末に急に入院することになった。4月6日に病院に来てほしいというメールがあったので駆けつけたが、病院はコロナ対策で面会ができなかった。待合室にいると、本人からナースステーションの近くまで来てくれと私の携帯に電話が入った。私が車椅子にのっていた飯田に近づこうとしたら、看護師に制止された。飯田はめずらしくイラ立っていて、「死んでいくのにどうして会わせないんだ」と、看護師にかみついた。しかし、それ以上話をすることは許されなかった。
 4月12日には飯田の地元の横浜の病院に転院すると連絡があったので、病院を出てからなら会えるだろうと思って築地へ向かい、駐車場に停めてあった車の中でストレッチャーに横たわったままの彼と話をすることができた。4月30日の佐々木さんの七回忌に出席できないかと飯田に話しかけ、彼も遠くを見るような眼差しをしたが、少しうなずいたのがわかった。団員たちにも会いたかったと思う。4月23日には「4月30日には行きたいと思っています」というメールが入ったが、結局、七回忌には出席することはできなかった。多くの人がどうして飯田の姿がないのだろうと思ったはずだ。飯田が亡くなったという報せに、まっさきに寂しがり屋だった佐々木が「キューピー、早くこっちに来て!」と呼んだに違いないと思った。
 最後に飯田に会ったとき、「髙橋さんは兄弟だから」と言われたのが、ズシンと心に響いた。佐々木が父親だとするなら、二人はたしかに「兄弟」だった。実の兄弟よりも付き合いが長く深かった。「兄弟だから」と言ったのは、死後のことを頼むという意味だったのかもしれないとも思う。飯田の死に直面し、あらためて人生について考えさせられている。
 さらば、キューピー!いつかどこかでまた会おう、兄弟!

髙橋 典夫 NBS専務理事