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2023/08/16(水)Vol.476

新「起承転々」 漂流篇 vol.77 思えば遠く来たもんだ
2023/08/16(水)
2023年08月16日号
起承転々
連載

新「起承転々」 漂流篇 vol.77 思えば遠く来たもんだ

思えば遠く来たもんだ

 夏はなぜか遠い昔のことを思い出す。8月のお盆の時期になると、亡くなった人や故郷のことに思いを致すことになるからだろうか。記憶と音楽は結びついていて、我ながら意外なのだが高校時代に聴き憶えた吉田拓郎のフォークソング『夏休み』という曲が口をついて出る。「麦わら帽子はもう消えた」から始まって、たんぼの蛙、姉さん先生、絵日記、花火、とんぼ、西瓜、水まき、ひまわり、夕立ち、せみの声、といった歌詞が続き、子どもだった頃の懐かしい夏の風景が蘇って、胸がいっぱいになる。若い頃はあんなにのんびりしていたのに、いまはいつも何かに追い立てられているようで心に余裕がない。ふとした拍子にフラッシュ・バックすることが多くなったのは、私も追懐の年齢に達したからだろうか。
 高校時代に将来は漠然と美に関わる仕事に就きたいと思ったことはあるが、よもや自分がオペラやバレエを生涯の仕事にすることになるとは思ってもいなかった。思い返せば、1981年のミラノ・スカラ座の初来日公演の体験が、私が苦界に身を沈めるきっかけだった。アッバード指揮によるストレーレル演出の『シモン・ボッカネグラ』とポネル演出の『セビリアの理髪師』、クライバー指揮による『オテロ』と『ボエーム』。オペラが音楽と演出、舞台美術、衣裳、照明と、人間の叡智を結集した総合芸術であることを直に肌で感じ、その圧倒的な熱量の中に巻き込まれてしまったのだ。あの衝撃的な体験がなければ、まちがいなく私はこの世界に留まることはなかっただろう。その後も折にふれ、ここは自分がいる場所ではないと思い続けてきたが、いまとなっては「思えば遠く来たもんだ」というのが実感だ。「思えば遠く来たもんだ」は、中原中也の詩『頑是ない歌』の一節だが、中也は30歳で没している。中也に比べても私は遥かに遠くまで来てしまった。
 NBSの創立者の佐々木忠次は本場と同じものを日本にもってくるという引っ越し公演にこだわった。時代とともに世の中が大きく変わり、いまでは海外からのオペラの招聘公演も珍しくなくなった。ドサ回りのペラペラの舞台装置、演出もあってないような外来のオペラが目につくが、それは引っ越し公演とは似て非なるもので、オペラは総合芸術であると信じている私にはどうしても受け入れ難い。
 9月にはコロナ禍を経て4年ぶりに実現する引っ越し公演、ローマ歌劇場日本公演が控えている。ヴェルディの『椿姫』とプッチーニの『トスカ』という人気の2作だ。『椿姫』は前回の2018年に続く再演だが、女流映画監督S・コッポラの演出、ハリウッドで数々の大作を手がけてきたN・クロウリーの舞台美術、ヴァレンティノの豪華な衣裳が話題を集めた。一方の『トスカ』は伝説の巨匠ゼッフィレッリの演出と舞台美術だ。気鋭のマリオッティが指揮をし、いま最高潮の歌手たちが火花を散らす。これらのオペラを体験していただければ、オペラが総合芸術であることをあらためて実感していただけるだろう。
 東京の劇場不足が深刻な状況であることを、前々回のこのコラムで書いたところ、思いのほか多くの人が関心を寄せてくれた。東京近郊ではオペラの本格的な引っ越し公演ができる劇場は、東京文化会館、渋谷のNHKホールとオーチャードホール、横浜の神奈川県民ホールくらいだ。東京文化会館は2026年春から改修工事に入るらしいし、オーチャードホールは2026年、27年は全面休館、神奈川県民ホールも2025年から休館するという。泣いても笑っても2026年から3年間はオペラの引っ越し公演はできそうにない。我々の仕事は数年先の企画を仕込まなければならないから、2026年以降のことであっても劇場不足の問題は現時点においても切迫した問題なのだ。
 先月、東京バレエ団がメルボルンで公演していたときに、オーストラリア・バレエ団のエグゼクティブ・ディレクターからメルボルンの州立劇場も2024年3月から3年間改修工事のため休館すると聞き、ここでも改修工事かと思わず声を上げてしまった。その間はもっと小さな劇場で公演することになるから、劇場が変わることで定期会員が離れていってしまうのではないかと心配しているという。メルボルンから帰ると、イタリアのボローニャから仮設劇場の図面がメールで送られてきた。東京バレエ団は来年11月にイタリアのカリアリ、バーリ、ボローニャ公演を予定しているが、ボローニャの劇場も改修工事中で、仮設劇場で公演してほしいという。次々と劇場の改修工事の話を聞かされ驚いたが、どこの劇場もいつかは改修工事が必要になるわけで、改修工事はあらかじめ想定しておかなければならないことなのだと思う。海外では劇場が専属団体を抱えていることが多いから、工事期間中どうやって団体の活動を継続させるかを考える。ところが日本では我々実演団体は劇場を借りる立場であって、貸す側の劇場は借り手の都合など斟酌しない。だから我々実演団体が自分たちの身の振り方に頭を悩ませなければならないのだ。
 東京のオペラ・バレエ劇場不足が実演団体にとって死活問題であることを、はたして国や東京都はどこまで認識してくれているのだろうか。劇場問題は我々の手に負えない。公演活動が継続できない場合はコロナ禍のときと同じように、国や東京都は何らかの救済策を講じてくれるのだろうか。
 現在、オペラの引っ越し公演はかつて経験したことのない暴風並みの逆風に見舞われている。航空運賃やホテル代、海上輸送費など制作費が軒並み高騰しているが、一番響いているのは極度の円安だ。ローマ歌劇場日本公演に例をとると、前回2018年9月は1ユーロ130円だったが、2023年の現時点で1ユーロ157円だ。単純に言って、契約金だけでも実質18パーセント・アップだ。それにやがて公演する劇場がなくなってしまうから、このままでは完全に息の根を止められてしまう。引っ越し公演は不確定要素が多く、あまりにもリスクが大きい。歴史の変わり目なのかもしれないが、1980年代から2000年代までのオペラの引っ越し公演の黄金時代を経験したものにとっては、氷河期に環境が大きく変わり、マンモスが滅びていったような無常観と諦念を感じるのだ。せめて、オペラ好きには目前に迫っているローマ歌劇場日本公演によって、オペラ引っ越し公演の日没前の最後の輝きを目と耳と心に焼き付けてほしいと思う。

髙橋 典夫 NBS専務理事