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2023/10/18(水)Vol.480

新「起承転々」 漂流篇 vol.79 オペラと競馬
2023/10/18(水)
2023年10月18日号
起承転々
連載

新「起承転々」 漂流篇 vol.79 オペラと競馬

オペラと競馬

 コロナ禍による4年のブランクを経てオペラ引っ越し公演が復活した。さまざまな難関を突破して、なんとかローマ歌劇場日本公演を無事に終えることができた。いくつもの障害があった。8月下旬の2つの台風の影響で、舞台装置を積んだ船の到着が大幅に遅れたことから、一時は最初の演目『椿姫』を演奏会形式での上演に切り替えることも覚悟した。『トスカ』の舞台装置が大掛かり過ぎて想定以上に仕込み時間がかかり、もっとも影響が大きいリハーサルのスケジュールで調整せざるを得なかった。公演期間中はいつも台風や大雨による交通機関の計画運休がないことを祈っていたし、団員たちの間でコロナやインフルエンザに罹った人が増え、毎日ハラハラしながら対応に追われていた。人智の及ばないことは神さまに頼るほかない。私はこの仕事に就いて以来、一切賭け事に手を出さなくなっている。この仕事自体が興行という大きな賭けなので、小さな賭け事に手を出して、へんに運を使いたくないと思っているからだ。コンビニのキャンペーンで店員からオマケくじを勧められても必ず断わっている。自分自身、悪いことをしたら天罰が下ると思うから、品行方正を心がけているつもりだ。いまでは神さまが私をまっとうな道に導くため、この仕事で難行苦行を与えているのではないかとさえ思っている。
 ローマ歌劇場の公演を何とか乗り切った次の日曜日、友人に誘われ40余年ぶりに禁を破って府中の東京競馬場に出かけた。「ダービールーム」という場所で、ネクタイとジャケット着用のドレスコードがある。競馬に興味がないわけではなかった。じつは大学時代になぜかあるオーケストラでアルバイトをすることになり、楽員たちから馬券を買ってきてくれと使いを頼まれた。今と違ってインターネットで馬券を買える時代ではない。たびたび渋谷の並木橋にあった場外馬券場に馬券を買いに行くことになった。公営とはいえ競馬は賭博だから、場外馬券場はすさんだ空気と妙な熱気にあふれていた。まさに無頼派の作家、織田作之助の小説『競馬』の世界で、私自身、競馬に狂ったら身を滅ぼすと、どこかで自制する気持ちが働いていた。ある日、いつも馬券を頼まれていたチェリストから、府中の競馬場に行こうと声がかかり、水色のアウディに乗せてもらって競馬場に行くことになった。そのチェリストはドイツ帰りの男前で、昼食にバゲットのサンドイッチとワインを振舞われた。そこで私の競馬に対するイメージが一変した。昭和50年代のことである。ドイツ帰りのチェリストと、外車のアウディ、バスケットに入ったサンドイッチとロゼワイン。貧乏学生であった私には別世界だった。その後、学生の分際でありながら競馬にのめり込み、ディック・フランシスの競馬ミステリーを読みふけった。けっして褒められたものではなく、いまと違って時間に余裕があったから、たまたま情熱のはけ口が競馬だったのだろうと思う。次第に私の中では競馬は織田作之助の狂気の世界から、競馬にロマンを求めた寺山修司の世界に変わっていったものの、いまでは昭和のころの写真のようにセピア色に褪せてしまっている。余談ながらNBS創立者・佐々木忠次の友人のオペラ歌手で、私も関西のオバちゃんと思って懇意にさせていただいていた人が、あるとき織田作之助と結婚していたことを知り、ひどく驚いたことを憶えている。
 久々に競馬場に足を踏み入れて、昔の印象とはまったく違うことに驚かされた。子供連れ、家族連れが目立つのだ。競馬はJRA(日本中央競馬会)の努力によって昭和から平成を経て大きくイメージアップを果たしたと思う。インターネットで調べてみると、JRAは日本中央競馬法に基づく特殊法人で、農林水産大臣の監督下に置かれているようだ。「国民的レジャーを提供すること」を標榜している。競馬場は賭博場から場内に遊園地もあって家族連れでも楽しめる娯楽の場に変わった。JRAはそれを目標に努力を続けてこられたのだろう。競馬と公演、競馬場と劇場の共通点をいくつも感じた。我々の舞台芸術の世界も昔は興行だからいかがわしいと思われていた時代があったが、いまは文化事業として認知されている。競馬場は施設が重要だが、NBSは自前の劇場をもっているわけではないので、できることは限られている。感動は最強のコンテンツであり、お客さまは大枚をはたいてでも感動を味わいたいのだ。
 来年6月には英国ロイヤル・オペラ日本公演を控えている。ローマ歌劇場の引っ越し公演は、「輸入」だから急激な円安によって予算を大幅に超える赤字だった。それでも引っ越し公演を支持してくれた多くの観客の方々がいて少し救われた思いがしたが、英国ロイヤル・オペラはローマ歌劇場以上にハードルが高い。為替がどう推移するかわからないにしても制作経費が高騰しているから、どうしても入場料が高くならざるを得ない。海外の歌劇場は国立や州立などの公的機関だが、日本公演の受け皿が民間のNBSであること自体、これまでの経験からさまざまな点で無理があると思っている。
 来年6月の英国ロイヤル・オペラ日本公演を実現するためには、これまでにない試みに挑戦しなければならない。そのうちの一つとして検討しているのが、いまではスポーツの世界などでも認知されているお客さまのニーズに合わせて料金を変えるダイナミック・プライシングの導入だ。いまではお祭りや花火大会も開催資金を調達するため、有料の観覧席を設けることも珍しくなくなっている。ともかく引っ越し公演を経済的に成り立たせる仕組みが必要なのだ。むろん、スポンサーや寄付者に支えてもらえないとオペラの引っ越し公演は実現できないし、このコラムで何度か取り上げてきたように引っ越し公演は日本ならではの文化だと思うから、インバウンドのためのコンテンツの一つとして、公的機関からも支援を仰ぎたいものだ。
 「ダービールーム」から見る景観は爽快だったが、私は競馬そっちのけで、NBSが勝負しなければならない来年6月の英国ロイヤル・オペラをどうするかに思いをめぐらせていた。

髙橋 典夫 NBS専務理事