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2023/11/15(水)Vol.482

新「起承転々」 漂流篇 vol.80 還暦
2023/11/15(水)
2023年11月15日号
起承転々
連載

新「起承転々」 漂流篇 vol.80 還暦

還暦

 東京バレエ団が創立60周年を迎えるが、人間でいえば「還暦」だ。干支が一巡して赤ちゃんに戻るから、赤いちゃんちゃんこを着て祝い、第二の人生が始まるのだ。私は40年余にわたって東京バレエ団に関わることになったが、この間ふり返れば、目眩を覚えるくらい世の中が大きく変わってしまった。これまで東京バレエ団は海外の主要なバレエ団に追いつけ追い越せでやってきた。財政的にはつねに厳しい状態が続いているものの、国内はもとより海外での公演数も多いことから国際的にも世界の主要なバレエ団とほとんど遜色のないくらい一定の評価を勝ち得ていると思っている。創立60周年シリーズの第1弾は10月20日に全幕世界初演した金森穣演出・振付の『かぐや姫』だったが、幸い成功裏に終えることができた。『かぐや姫』の東京公演が終わった翌日に、私はロンドンに向けて発つことになった。11月11日にはシリーズ第2弾となる『眠れる森の美女』新制作初演が控えていて、その合間を縫って駆け足でロンドンとパレルモを回った。
 つねに私の頭から離れないのが東京の劇場不足の問題で、NBSの使用頻度が高い東京文化会館が2026年春から工事休館に入るという情報があるので、休館中いかにNBSの活動を継続するかに頭を悩ませている。今回の出張はロンドンは来年6月に予定している英国ロイヤル・オペラ日本公演で上演する『リゴレット』を観て打ち合わせをするためだったが、パレルモは同時期にリッカルド・ムーティ指揮の『ドン・ジョヴァンニ』が予定されていたから、少し足を伸ばして観に行くことにした。2つの劇場と我々を取り巻く劇場事情を比べてみて、あらためて彼我の差について考えさせられてしまった。
 ロイヤル・オペラハウスでは前日上演したバレエ公演『アネモイ』と『ザ・チェリスト』のダブル・ビルから、当日上演する『リゴレット』への舞台転換の模様を舞台裏でつぶさに見る機会があった。ヨーロッパの主要なオペラハウスの舞台裏はある程度見知っているつもりだが、ロイヤル・オペラハウスの舞台機構はとても合理的にできている。本舞台の周りに広々とした舞台5面分のスペースがあり、そこにあらかじめ舞台装置を飾っておいて、その舞台面を移動させることによって簡単に舞台転換が図れるのだ。舞台スタッフが午後3時から作業に取りかかり、7時半開演の公演に悠々間に合う。このロイヤル・オペラで上演している『リゴレット』を舞台機構で格段に劣る日本の劇場で上演することを考えると、日本の実態との差に敗北感のようなやるせなさを覚えた。日本にも多面の舞台機構を備えた劇場はいくつかの都市に存在しているが、そもそも演目を変えて連日上演することがないから、宝の持ち腐れになっている。現実と噛み合っていないのだ。
 初めて訪ねたパレルモの劇場は想像していた以上に立派な劇場だった。劇場の舞台スタッフが舞台裏まで案内してくれたが、1897年に開場した建物そのものがアンティークの美術品のようだった。ヨーロッパのほとんどの劇場がそうであるように、パレルモも劇場を中心に街ができている。映画「ゴット・ファーザー」にも出てくるから、すぐにあの劇場かとピンとくる人がいるかもしれない。
 NBSと東京バレエ団の創設者、佐々木忠次の一番の望みは自由に使える自前の劇場がほしいというものだったが、海外の劇場事情を知る者として、日本は世界の主要国と比較して大きく遅れていると思わざるを得ない。ソフトとハード、芸術団体と劇場はコインの裏表のように一体のものだ。考えれば考えるほど日本には劇場文化がないという結論に行き着いてしまうのだ。
 実質的に私が佐々木の後を継ぐことになったのは2004年だから早20年が経つ。その後の東京バレエ団の足跡を後世に残さなければと思い、いま60周年史の編纂に取りかかっている。50周年のときには「東京バレエ団50年のあゆみ」と題した年史を作製したが、その巻頭に佐々木の次のような言葉が載っている。「創立してから50年も続いている芸術団体は、観客の支援や各方面からの経済的な援助なくしては存続できなかったわけだから、公共の財産だと考えるのが当然かとも思う。東京バレエ団のような大規模なバレエ団を民間で運営している例は世界中を見渡してもほとんどない。当事者がいうのはおかしいかもしれないが、世界30カ国152都市で738回も公演を実施している芸術団体が日本に存在していること自体ほとんど奇跡であり、客観的に見ても世界に誇れる財産ではないかと思う。(中略)見識ある為政者が国際的に高い評価の受けている東京バレエ団の活動を認め、国立や都立といった公共のバレエ団にする日がきてもおかしくないのではないかと考えている」。それからさらに10年が経ったが、我々を取り巻く状況はほとんど何も変わっていない。それでも東京バレエ団の公演数は年平均50公演だったのが65公演くらいに増えているし、海外公演も33カ国156都市で786回に数字が伸びている。着実に成長していると自負しているが、劇場不足によって、佐々木の言う「公共の財産」が存続の危機に陥りそうになっているのに、この深刻な問題が表面化しないのは我々当事者の社会に向けたアピール力が足りないからだろうか。
 この拙稿は『眠れる森の美女』の初日を終えたばかりのタイミングで書いているのだが、さまざまな紆余曲折があって『かぐや姫』初演から3週間後に『眠れる森の美女』を新制作初演することになった。2本の全幕バレエをわずか19日の間隔しかなく続けざまに初演することを内外のバレエ関係者が知ると一様に驚くが、自由にならない劇場事情もその一因になっている。狂気の沙汰だという声もあったが、なんとか予定通り実現できたことに私自身も感慨無量だ。見方を変えれば、いつの間にか東京バレエ団のダンサーたちは逞しくなっていて、この困難を突破できる力を備えていたのだ。『眠れる森の美女』の初演に漕ぎつけるまで、艱難辛苦を共にしてくれた人すべてに、この場を借りて心から御礼を申し上げたいと思う。これから本格化する劇場不足のことを考えると先行きに不安を感じるが、いまは60周年シリーズの幕開けである第1弾の『かぐや姫』と第2弾の『眠れる森の美女』の初演を成功裏に終えられたことを素直に喜びたい。何が待ち受けているかわからないが、東京バレエ団の第二の人生はこれから始まるのだ。

髙橋 典夫 NBS専務理事