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NEW2024/04/17(水)Vol.492

新「起承転々」 漂流篇 vol.85 引っ越しオペラの終焉
2024/04/17(水)
2024年04月17日号
起承転々
連載

新「起承転々」 漂流篇 vol.85 引っ越しオペラの終焉

引っ越しオペラの終焉

 三日見ぬ間の桜かな――桜が咲き始めたと思ったら、あっという間に花びらが舞い散っている。前号のこのコラムで目黒川沿いを散策したことを書いたので、1カ月経って再び目黒川沿いの桜並木を散策することにした。すでに葉桜になりかけていて、川面にはいたるところに花筏が浮かんでいる。前号では「断末魔」と題して首都圏の劇場不足によってオペラやバレエの公演が瀕死の状態に陥ってしまうと書いたのだが、「断末魔」というタイトルが刺激的だったせいか、予想外に読者からの反応が大きかった。SNS上では3万4000もの人が私の拙文を目の端に留めてくれたようだ。このコラムを読んでくださる方は、オペラやバレエの舞台の裏事情に興味があるのだとあらためて感じた。
 東京文化会館が2026年から3年間改修工事に入ると非公式な情報として伝わり、海外からの大掛かりなオペラ公演やバレエ公演が3年間観られなくなるということが、オペラ・バレエ・ファンにかなり衝撃を与えたようなのだ。少人数で舞台装置の少ないバレエのコンサート・プログラムやペラペラの舞台装置のオペラなら他のホールでも上演できるかもしれないが、建物以外丸ごと日本にもってくるオペラの引っ越し公演は不可能だ。これまでNBSは1974年以来、今日に至るまで継続的にオペラの引っ越し公演を敢行してきたが、このままなら2026年をもって長い歴史に幕を下ろすことになりそうなのだ。東京には劇場がたくさんあるではないかと思われている人がいるかもしれないが、大規模なオペラやバレエができる舞台機構を備えた首都圏の劇場は、東京文化会館やNHKホール、それに神奈川県民ホールくらいしかないのだ。東京文化会館は前述の通り3年間休館になりそうだし、神奈川県民ホールは2025年4月から閉鎖され、周辺を再開発するらしいから新しいホールが完成するまでに少なくても6~7 年はかかるだろうと噂されている。NHKホールはNHKが公開番組や収録、自主事業に使うことが優先されるから、ただでさえ借りるのが難しいのだが、NHK本体の建物が建て替え工事中で、工事のスケジュールがなかなか確定しないから外部貸し出しが難しいようだ。オペラの引っ越し公演のように3~4年前から計画を立てなければ実現できない大型プロジェクトは現実的に不可能な状況だ。新国立劇場があるではないかという声が聞こえてきそうだが、同劇場は外部への貸し出しは限定的だし、オペラの引っ越し公演を成立させるためには最低でも3週間は借りなければならないから現状では無理だろう。それに新国立劇場の客席数は1800席だから、2300席の東京文化会館と比べると500席少ないが、この差が大きい。入場料ベースで考えると単純に計算して入場料が1.27倍になってしまう。現在発売中の英国ロイヤル・オペラの入場券は東京文化会館での最高席S券が7万2,000円だが、そのまま新国立劇場に置き換えると9万1,000円になる計算だ。そうなったら、はたしてお客さまがついてきてくれるだろうか。
 泣いても笑っても、東京文化会館が休館する2026年から3年間、オペラの引っ越し公演は物理的に実現できそうにない。お客さまからしたら、3年間これまでのような本格的な公演を観られないことになるのだ。地方に立派な劇場があるのだから、そこでできないのかという声もあるが、2 演目で8公演くらいやらないと引っ越し公演自体が成立しないから、集客という点で東京以外での公演は難しい。この首都圏の劇場不足はわが国のオペラ・バレエの世界の生態系を大きく変えてしまうに違いない。この3年間のブランクによって観客が劇場から離れてしまうだろうし、舞台スタッフも高齢化が進んで人手不足が深刻なのだが、ますますこの分野に若い人材が入ってこなくなるのではないかと心配だ。この状況は引っ越し公演の終焉を招くのではないか。3年後に東京文化会館が再開したからといって、はたして復活できるだろうか。危機感を煽るわけではないが、これがいま我々が直面している現実なのだ。劇場不足の問題だけは我々には如何ともしがたい。これまでオペラの引っ越し公演を実現するためにさんざん苦労してきただけに、私自身はやり場のない怒りを感じている。コロナ禍の間、公演ができなかったのとはわけが違う。コロナ禍で公演ができなかったのが天災ならば、劇場不足によって公演ができなくなるのは人災といえるのではないか。オペラの引っ越し公演がどんどん終焉に向けて追い込まれているような気がしてならない。
 オペラの引っ越し公演の盛衰と桜の花の生命を重ね合わせて、私はどうしても感傷的な気分になってしまう。振り返ると、私は1979年の英国ロイヤル・オペラの初来日公演を皮切りに、昨年9月にコロナ後初めて実現したローマ歌劇場まで38回の引っ越し公演に現場で携わってきたことになる。1980年代後半のバブル経済全盛の時代から1990年代半ばまで、引っ越しオペラは咲き誇る満開の桜のようだった。それ以降は少しずつ花びらが散っていくように勢いが衰えていく。私の中では満開の桜の美しい残像が残っていて、折りにふれ追懐の情を揺さぶられるのだ。
 来る6月下旬には英国ロイヤル・オペラ日本公演を控えているが、この公演が最後の本格的なオペラ引っ越し公演になるかもしれない。文化政策なのか文化行政の問題なのかわからないが、オペラやバレエ上演のインフラである劇場が不足することによって、すでに日本の文化になっている引っ越し公演がこのまま途絶えてしまうのはやるせないかぎりだ。観客にとっても日本に居ながらにして、現地と同じ舞台が体験できる貴重な機会が失われてしまう。この甚大な文化的な損失の責任はどこにあり、怒りを誰にぶつければいいのか。長年のオペラ・ファンには、ぜひ今度の英国ロイヤル・オペラの引っ越し公演をご覧いただき、日没寸前の最後の輝きを脳裏に焼き付けておいてほしいと願うばかりだ。
 目黒川沿いの桜並木も新緑がまぶしく感じられる。季節は少しずつ移っている。「さまざまの事おもひ出す桜かな」。散策している私の頭に芭蕉の句が浮かんだ。

髙橋 典夫 NBS専務理事