クリスマスを目前に控え、街はイルミネーションに彩られ、賑わいを見せている。この時期、オーケストラはベートーヴェンの「第九」、バレエはチャイコフスキーの「くるみ割り人形」が定番だが、東京バレエ団も「くるみ」の東京公演を終えたところだ。メディアでは今年1年を振り返る企画が多くなっている。恒例の今年の漢字は「金」だそうだが、金とは無縁な私が選ぶとすれば「憂」といったところか。「憂」の理由はいろいろあるが、今年は日本のみならず世界各国の政治が不安定で、先行きを憂えること。それに私の頭から片時も離れない首都圏の劇場不足問題が憂鬱だからだ。
年齢のせいかもしれないが、年々月日の経つのが早く感じられるのは困ったものだ。NBSとして今年は2月には「パリ・オペラ座バレエ団」、6~7月には「英国ロイヤル・オペラ」、7~8月に「第17回世界バレエフェスティバル」など、大型の公演に取り組んだが、私の中ではとても今年にあったこととは思えないくらい記憶が薄れてしまっている。能登半島地震が発災してから、やがて1年が経つのだという確たる感覚はあっても、公演となると次々に目前に迫る別の公演の準備に追われるから、公演が終わった途端、猛スピードでその記憶が遠のいてしまう感覚なのだ。
東京文化会館が休館することによって、オペラの引っ越し公演はもとより、「パリ・オペラ座バレエ団」や「英国ロイヤル・バレエ団」、「シュツットガルト・バレエ団」などの舞台装置が大掛かりな全幕バレエの公演はできなくなる。東京バレエ団の全幕バレエも制限を受ける。文化会館休館中は、文京シビックホール、新宿文化センター、昭和女子大学 人見記念講堂、横須賀芸術劇場、川口総合文化センター リリアホールなどを利用し、会場の舞台機構に合わせて演目を決定せざるを得ないと思っている。観客の立場から言えば、東京文化会館休館中はこれまで観ることができた演目が観られなくなるのだ。我々が劇場を転々とすることで観客が離れていくことも心配だ。
2025年、NBSの最大の目玉はウィーン国立歌劇場日本公演だが、このウィーン国立歌劇場日本公演が、東京文化会館が休館する前の最後の引っ越し公演になる。オペラの引っ越し公演は、コロナ禍で4年間中断していた。昨年のローマ歌劇場で何とか再開したが、現場ではノウハウの継承を含め、さまざまな点で4年間のブランクは大きかったと身に染みている。それにも増して大打撃だったのは、極度の円安をはじめ、宿泊ホテル代など制作費の高騰による財政面で、昨年のローマ歌劇場、今年の英国ロイヤル・オペラと、これまでにない大きな赤字をつくってしまったことだ。2025年10月に予定しているウィーン国立歌劇場の詳細をまもなく発表することになるので、いま入場料金をいくらに設定するかを検討しているが、頭が痛い。結局は観客の皆さまがその入場料金を受け入れてくれ、チケットを購入してくださるかだ。世界の主要なオペラハウスでも年々入場料金は高くなっているが、公演の価値を認め、それを受け入れてくださる観客の皆さまがいてこそ公演が成り立っている。日本もオペラの引っ越し公演の存在価値をどれくらいの人々が認めてくれ、入場料に見合う価値を見出してくれるかにかかっているが、それを判断するのはとても難しい。今回、平日と土日公演の入場料金を変えるダイナミック・プライシングや寄付つきの席を取り入れることになりそうだが、何とかウィーン国立歌劇場日本公演を実現するために、オペラを愛してやまない皆さまのご理解とご支援を切にお願いしたい。
50年も続いているオペラ引っ越し公演は、すでに日本の文化になっていると私は考えているが、東京文化会館の3年間の休館によって、それが途絶えてしまうのではないかと心配している。NBSはさまざまな歌劇場を招聘してきたが、ウィーン国立歌劇場は9年ぶり10度目の日本公演になる。日本のオペラ・ファンは「ウィーン・フィル」の母体である「ウィーン国立歌劇場」に対し格別な思い入れがあるようだ。今回は東京文化会館のみでの公演だが、通常、初日の幕を開けるまでに仕込みや舞台稽古などで1週間はかかる。だから、オペラの引っ越し公演の場合、東京文化会館のほか神奈川県民ホールやNHKホールを使ってパラレルで2つの演目の仕込みや舞台稽古をしていたのだが、神奈川県民ホールは2025年3月末をもって改築のため休館するし、NHKホールもNHK本体の建物の工事などの事情があってなかなか借りられないことから、今回は東京文化会館だけで上演することになった。メンバーの滞在期間が長くなる分、ホテル代をはじめとする滞在費も嵩んでしまう。一方、観客側からは2演目とも東京文化会館の公演でよかったという声が聞こえてきそうだ。2029年4月に予定どおり同会館が再開しても、そのときどういう状況になっているのか想像がつかない。これまでと同様に引っ越し公演ができるのかどうかも分からないから、もしかしたら、これが最後になるかもしれない。いずれにしても今度のウィーン国立歌劇場日本公演は、とても貴重な機会になるのは間違いない。
私はこれまで幾度となく引っ越し公演に携わってきて、首都圏の劇場不足から公演ができなくなることに言いようのない虚しさを覚えている。これまでこのコラムで事の重大さを切々と訴えてきたつもりだが、虚しさもさることながら、政治だか行政だかの無慈悲な手によって、これまで丹精を込めて耕してきた畑が涸らされていくようで憤懣やる方ないのだ。
いまやいくら足掻いてもどうしようもないという諦めが、私の中では少しずつ強くなっている。頭の片隅では3年間の休館中、NBSがどう生き延びるかを片時も忘れることはない。今から16カ月後に迫った東京文化会館の休館が与える影響をどれだけの人々が深刻に受け止めているだろうか。この首都圏の劇場不足の問題は、文化政策や文化行政上の大問題なのに、政治も行政も手をこまねいているだけとしか思えない。
今年は6月の都知事選、10月の衆院選、11月のアメリカの大統領選と兵庫県知事選など選挙の年でもあったが、SNSが想像を超える威力を発揮した。私はSNSには疎い人間だが、劇場文化の衰退を憂える心ある皆さまが、SNSを駆使することによって、この問題が大きなうねりとなり社会問題化するように、蜂起してもらえないものだろうか。
髙橋 典夫 NBS専務理事