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NBS日本舞台芸術振興会
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2025/05/21(水)Vol.518

新「起承転々」 漂流篇 vol.98 災い転じて福となす
2025/05/21(水)
2025年05月21日号
起承転々
連載

新「起承転々」 漂流篇 vol.98 災い転じて福となす

災い転じて福となす

 今年もゴールデンウィークの前半、東京文化会館で「バレエと出会おう、バレエで遊ぼう」をテーマに〈上野の森バレエホリディ〉を開催した。若葉の季節と子ども向けのイベントは相性が良い。2017年に始め、コロナ禍で映像配信に切り替えた時期はあったが今年で9回目になる。今回も『眠れる森の美女』全幕上演をはじめ、さまざまなバレエに関するイベントを行ったが、この催しを始めたのは、バレエは高尚で敷居が高いと感じられる人が多いようなので、その敷居を取り除くとともに、劇場が身近なものであるということを子どもたちに感じてもらいたいという思いからだった。
 ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し/せめては新しき背廣をきて/きままなる旅にいでてみん。/汽車が山道をゆくとき/みづいろの窓によりかかりて/われひとりうれしきことをおもはむ/五月の朝のしののめ/うら若草のもえいづる心まかせに。
 毎年、新緑が輝く5月になると、この萩原朔太郎の詩「旅上」が口をついて出てくる。私はけっして詩が好きなロマンティックな人間ではないのだが、この詩は諳んじているのだ。それにはわけがある。中学2年生のときに遡る。担任が音楽の教師だったのだが、教師になりたての熱血先生だった。ある期間、この詩を教室の壁に貼り出して、毎朝、クラスの生徒全員に声を出させて読ませたのだ。この詩の意味も、良いのか悪いのかもよくわからなかった。そのときは何でそんなことをさせるのだろうと先生に対し抵抗感があったが、子どものときに憶えたことは忘れないもので、その後、毎年若葉のころになると、決まってこの詩が脳裏に浮かび、瑞々しかった心を少し取り戻せるような気がするのだ。いまではその先生に感謝している。
 なぜこんなことから書き始めたのかというと、若い感性豊かなときに文芸や芸術に触れることが重要だと思うからだ。かつてこのコラムでも書いたことがあるのだが、2019年から2024までの6年間、横浜市の教育委員会の主催で、横浜関内ホールで、子どものためのバレエ『ドン・キホーテの夢』を上演した。横浜市の小学4年生が対象だったが、公演を観た子どもたちの反応がすばらしく、みな目をキラキラ輝かせていた。不明を恥じるほかないが、私はこのときの経験から子ども向けの公演の重要さをあらためて認識することになったのだ。いまでは私は子どもたちに生の舞台芸術に触れさせることは、どんな教育にも勝ると思うようになっている。
 文化庁に2022年から「劇場・音楽堂等における子供舞台芸術鑑賞体験支援事業」という子どもたちが舞台芸術を無料で観られる制度が始まった(以下、子どもチケットと表記)。我々としては大歓迎で、入場料の"敷居"がなくなるだけでも大きい。欲をいえば、さらに成果が挙げられるよう、もう少し現場における実態に合うように整備し、関内ホールでの公演のように学校と連携するなどして、もっと支援事業の枠組みを拡大してほしい。本年度、NBSの事業として文化庁から採択されているのは、5月30日に初日を迎えるオーストラリア・バレエ団の『ドン・キホーテ』だ。オーストラリア・バレエ団は世界の名門バレエ団の一つで、今回上演するルドルフ・ヌレエフ版『ドン・キホーテ』は、演出・振付はもとより舞台装置や衣裳も凝りに凝っている。初々しい感性豊かな子どもたちに、総合芸術であるバレエを肌で感じてもらいたい。子どもたちにとって通常の授業よりも何百倍も得るものが大きいだろうと思う。何よりも文化庁のこの制度を使えば、18歳以下の青少年は無料で観ることができ、保護者の方が半額の料金で観られる枠も設けられているのだから、この機会を逃す手はないだろう。NBSはU25シートなどを設け若者が低廉な料金で公演を観られる仕組みをつくっているが、さすがに子どもたちは無料、その保護者は半額といった大盤振る舞いはできない。このチャンスを利用して、ぜひオーストラリア・バレエ団の『ドン・キホーテ』をご覧いただきたい。
 私はつねづね若者への教育こそが、日本の将来を変えると信じている。ITやAIが急激に進化する時代にあって、仮想空間の出来事ではなく、多くの人と一緒に肌でリアルな体験をすることがさらに重要になるだろう。これからの時代は、人間にしかできないことを追求していくことになるのは明らかだ。これからの世界を生き延びるには、精神の柔軟性と情緒的なバランスが必要といわれているが、子どもたちが想像力と創造力を養う場をつくることが我々の役割だと思っている。これまで東京バレエ団は子ども向けのバレエ公演にも積極的に取り組んできた。子どものためのバレエ『ねむれる森の美女』、子どものためのバレエ『ドン・キホーテの夢』がレパートリーにあるが、東京はもとより全国各地を巡って上演してきた。いずれも登場人物のひとりが語り役になって、物語が進行するから子どもたちにもわかりやすい。いま3作目となる、はじめてのバレエ『白鳥の湖』~母の涙~を制作中で、8月22日に〈めぐろバレエ祭り〉の一環として初演する。
 来年5月以降、これまで東京バレエ団が本拠としてきた東京文化会館が3年間の工事休館で使えなくなる。それは我々にとって深刻な死活問題だから、その対策の一つとして、子ども向けバレエを各地の劇場で上演したいと思っている。劇場不足により東京で公演ができなければ、東京バレエ団を維持するためには地方公演を増やすしかないのだ。地方の大きな都市には、東京以上に立派な劇場が点在しているが、十分機能していると思える劇場は多くない。劇場は文化インフラなのだから、そこを創造拠点のホームとして活用できないかと国に訴えているのだが、いまのところ先は見通せない状況だ。「災い転じて福となす」の諺どおり、ピンチをチャンスに変えるプラス思考が必要なのだろうと思う。東京の劇場不足を逆手にとって、石破総理が唱える「地方創生」の動きもあるから、この機に地方都市に舞台芸術の拠点をつくることは、一石二鳥にも一石三鳥にもなると思うのだがどうだろう。ゼロから集客するのは難しいから、その拠点劇場での公演に「子どもチケット」を組み合わせたり、劇場は観光資源でもあるのだから、観光やインバウンドの拡充と連動させて観客を動員することもできるのではないか。さまざまな支援制度の合わせ技で、より成果を上げられるのではないかと愚考している。現場にはさまざまなアイディアが散らばっている。国は机上の空論ではなく、不遜ながら我々のような現場の意見にもっと耳を傾けてもらえないものだろうか。省庁の壁を超えて、もっと実態に即した、より効果のある具体的な施策を考え、速やかに実行してもらいたい。

髙橋 典夫 NBS専務理事