東京バレエ団の『オネーギン』公演が目前に迫っている。シュツットガルトのクランコ財団から振付指導者を迎え、連日、熱のこもった稽古が続いているが、ふり返ればここに至るまでには、さまざまな紆余曲折があった。NBS/東京バレエ団にとって、『オネーギン』は特別な作品である。そして、私自身にとっても、さまざまな思いが交錯する、因縁深い作品だ。
物語は53年前に遡る。NBS/東京バレエ団の創立者、佐々木忠次が初めてシュツットガルト・バレエ団を日本に招聘したのは1973年。〈民音世界バレエ・シリーズ〉の一環で、主催は民主音楽協会だった。プロデュースを手がけた佐々木は同バレエ団を招聘するためシュツットガルトを訪れたが、そのとき芸術監督のジョン・クランコと昼食をともにしている写真が残っている。このときの日本公演の演目に『オネーギン』が含まれていたのである。
プーシキンの韻文小説を原作とするこの作品は、見かけばかりに気を取られ、愛よりも自分の価値観を優先した男、オネーギンの悲劇を描く。真実の愛に気づいたときには、すでに遅すぎた。クランコは人間の身勝手さと悔恨、そして取り返しのつかない時間の残酷さを、見事にバレエへと昇華させた。人間が抱く感情を言葉以上に音楽と踊りで表現することができた、従来のバレエの可能性を大きく広げた画期的な作品と言えるだろう。私は53年前の日本公演を観ていない。しかし、1976年の〈第1回世界バレエフェスティバル〉で、ミュンヘン・バレエ団のコンスタンツェ・ヴェルノンとユーリー・ヴァモスが踊った『オネーギン』第3幕「手紙パ・ド・ドゥ」のことは、いまも鮮明に覚えている。全幕ではなく、パ・ド・ドゥだけの上演だったことも影響したのだろうと思うが、客席から返ってきたのは、「なに? これ!」というような、戸惑いと冷ややかな反応だった。それがいまや、『オネーギン』のパ・ド・ドゥは〈世界バレエフェスティバル〉の人気演目となり、心を揺さぶる作品として愛されている。
東京バレエ団が『オネーギン』を初演したのは2010年。この初演に至るまでにも、忘れられない物語がある。1989年に東京バレエ団の現団長、斎藤友佳理が、ジョン・ノイマイヤー振付の『月に寄せる七つの俳句』を踊った際、それを観たモーリス・ベジャールは「友佳理に『オネーギン』のタチヤーナを踊らせたらどうか」と佐々木に伝えた。それを受けて、佐々木は2年後の〈第6回世界バレエフェスティバル〉で、斎藤に『オネーギン』のパ・ド・ドゥをシュツットガルト・バレエ団のリチャード・クラガンをパートナーに踊らせようと考えた。『オネーギン』の初演以来タチヤーナを踊ってきたマリシア・ハイデが、斎藤を手取り足取り献身的に指導してくれた。しかし、公演前日になって著作権保有者から、全幕を踊った経験のないダンサーが一部だけを踊ることは認められないとの報が入った。それでもぎりぎりまで交渉は続いていた。斎藤はメイクをし、衣裳を着け、舞台袖で出番を待っていたにもかかわらず、結局、許可は下りなかった。
佐々木はそれ以来、『オネーギン』全幕を東京バレエ団で上演したいと願い続けた。2009年になってようやく上演許可が下りる。76歳になっていた佐々木は、その年の東京バレエ団の最終日のスタジオでの納会に弱った身体を押して久々に姿を見せると、ダンサーたちの前で人目をはばからず涙を流して『オネーギン』を上演できることを喜んだ。初演は2010年5月14日。その前日ゲネプロに、何の前触れもなく東京文化会館の客席に現れた佐々木は、くだんの著作権保有者ディーター・グラーフェと挨拶を交わした。それが、佐々木が人前に姿を見せた最後となった。
今春、日本でも映画『ジョン・クランコ バレエの革命児』が公開された。45歳という若さで非業の死を遂げたクランコの素顔と人生を描いた作品である。登場人物や人間関係をある程度知っている私にとっては、「なるほど、そうだったのか」と、これまで断片的にしか知らなかった人間模様がつながる場面が少なくなかった。私が映画を観て感じたのは、いまや神格化されている天才も苦悩と孤独を抱えてもがいた生身の人間だったということだ。1969年、シュツットガルト・バレエ団はニューヨークのメトロポリタン歌劇場に招かれ、公演は大成功を収める。一夜にして、世界のバレエ界にその名を知らしめたのだ。マリシア・ハイデやリチャード・クラガンといった優れたダンサーたち。チャイコフスキーの音楽をバレエのために編曲したクルト=ハインツ・シュトルツェ。舞台美術を手がけたユルゲン・ローゼ。これほどの才能が、ドイツの地方都市シュツットガルトに集結したことに、あらためて驚かされる。彼らの才能を見いだし、結びつけ、一つの芸術へと結実させたのがクランコだった。天才が天才を育てたというべきか。まさに「シュツットガルト・バレエの奇跡」である。
14年ぶりに再演する東京バレエ団の『オネーギン』にも、さまざまな思いが込められている。まず、この作品は役者(役にふさわしいダンサー)が揃わなければ成り立たない。物語を身体で語り、登場人物の心の機微を観客に伝えるには、テクニックだけではなく、成熟した表現力が求められる。幸い、いまの東京バレエ団はダンサーが充実しているとの評価を得ている。一方、上演を実現するには、著作権をはじめ、さまざまな条件をクリアしなければならない。とりわけ経済的な負担は大きい。そこで「『オネーギン』リバイバル基金」を立ち上げたところ、ありがたいことに、目標としていた金額を確保することができた。ご支援くださった皆さまには、感謝してもしきれない。
今回の再演にあたって避けて通れなかったのが、首都圏の劇場不足という問題だ。東京文化会館が長期休館に入るなか、我々にとって十分な舞台機構を備えた新国立劇場を使用できる機会は貴重である。公演日程も限られているから、どの作品を選び、どのような舞台を実現するかは、芸術的にも経営的にも重大な判断となる。東京文化会館の休館中も、東京バレエ団のプレステージを維持しなければならないからだ。こうした条件をさまざまな角度から検討した末に選んだのが、『オネーギン』だったのだ。今回の舞台装置と衣裳に関しても、別のエピソードがある。ここでは紙幅がないので触れることはできないが、ミラノ・スカラ座からピエール・ルイジ・サマリターニ版を借りることにした。芸術的な意義、ダンサーの充実、資金の確保、そして劇場事情。さまざまな条件をクリアしてようやくここに辿りついたという感が強い。
佐々木忠次が53年前にクランコに会って以来、日本における『オネーギン』上演をめぐる物語は続いている。佐々木は10年前に没し、初演を踊った斎藤友佳理は東京バレエ団の団長になり、後進に『オネーギン』を託そうとしている。時は非情なくらい速く流れている。クランコは初めての日本公演の3カ月前、アメリカからの帰途に飛行機の中で突然死するが、彼が残した作品によって永遠の命を得たと言っていいだろう。『オネーギン』は時を超え、いっそう輝きを増している、20世紀で最も重要な作品の一つだ。私には『オネーギン』と東京バレエ団の物語は、いくつものエピソードの川が集まって、大河となって今回の公演に流れ込んでいるように思えてならない。『オネーギン』に込められたさまざまな人々の思いを乗せ、満を持して東京バレエ団が総力を挙げて挑む『オネーギン』。半世紀以上にわたる物語の新たな一章となるこの舞台を、すべてのバレエファンに刮目して見届けてもらいたいと願っている。
髙橋 典夫 NBS専務理事