オペラを楽しみたい方のために、1回1作品をご紹介します。音楽評論家堀内修さんが選ぶ3つの扉から、オペラの世界へお進みください。
人はこんなに情熱的に歌うものだろうか? 激しいなんてものじゃない。常規を逸しているといってもいいくらいだ。第3幕の終わりで、流刑地に向かう船にマノンが囚人として乗せられた時、デ・グリューが歌う。力のあるテノールが歌ったら、歌われた者はなんでも聞き入れるだろうと信じてしまう。実際船長はデ・グリューの願いを聞き届けて、デ・グリューはアメリカ行きの船に乗り込む。プッチーニは人の気持ちを動かす歌を作れる音楽家なのだと、この歌が証明した。作られて120年以上経ったいまでも、人を驚かせる歌だ。
さっさと逃げればいいのに! と客席で苛立っても空しい。恋人と一緒に逃げようと決めたのに、マノンは宝石やら何やらに執着する。第2幕で、マノンは金持ちの豪邸を去ろうとしているが、追っ手が迫っていた。さっさと逃げればいいのだが、もう間に合わない。大変だ、どうしよう! とあおりたてるような音楽が鳴り響く中で、愛を選びながら贅沢好きでもあるマノンの本性が露わになる。
写真1) マノンはいい暮らしがしたい、という愛すべき望みを持っていた。第2幕ではその望みをかなえている。
写真2) 捕らえられたマノンをデ・グリューは救い出せない。できるのはなんとか流刑地について行くことだけ。デ・グリューは本当について行く。
[ローマ歌劇場2018年日本公演『マノン・レスコー』より]
Photos: Kiyonori Hasegawa
デ・グリューの恐ろしいほど情熱的な歌があっても、このオペラの主役はマノン・レスコーだ。原作であるフランスの小説で描かれるマノンは男を惑わす魔性の女だが、プッチーニのオペラのマノンは違う。第2幕で歌われる「柔らかなレースに包まれても」で。この贅沢好きな女性が、本当は愛を求める女なのだと高らかに告げられる。そして第3幕の「ただひとり、迷い、捨てられて」の歌だ。
第3幕のデ・グリューの歌をしのぐほど悲痛で、常規を逸している。水を求めてデ・グリューが離れ、砂漠でひとりきりになったマノンが、この絶望のアリアを歌う。砂漠で水がなく、苦しんでもうすぐ死んでしまう、という気の毒なマノンが歌うのに、歌われた後、客席に歓喜渦巻くのは珍しくない。
美少女 | 乗合馬車の発着所に現れたマノンは美女、というより美少女だった。オペラ『マノン』は美貌の若い女をめぐって繰り広げられる。美貌が意味を持つ時代だった。 |
18世紀 | マノンのエピソードが含まれるアベ・プレヴォーの〈ある貴族の回想〉が出版されたのは1731年だった。大貴族や金持ちが力を持ち、女性は美貌が大事で、社会的に差別される18世紀だったのが、オペラからもよくわかる。 |
柔らかいレース | マノンが第2幕で歌う「柔らかなレースに包まれても」のレースは、下着や帽子ではなくてカーテンだ。レースのカーテンは豪奢な暮らしのシンボルということになる。18世紀の話だ。 |
流刑地 | 罪を犯した娼婦としてマノンが送られる流刑地はアメリカだ。マノンが命を落としたのはフランス領野、ニューオーリンズに近い砂漠だった。当時のパリで「アメリカ送りにしてやるぞ」と言われた人は震え上がったに違いない。 |
監修:堀内修