オペラを楽しみたい方のために、1回1作品をご紹介します。音楽評論家堀内修さんが選ぶ3つの扉から、オペラの世界へお進みください。
自分の書く言葉でみるみるタチアーナの気持ちが高ぶっていく。気持ちが高ぶるのは書いているタチアーナだけじゃない。息をつめながら、恋文を書くヒロインの歌を聴く人すべてが興奮する。第1幕にある「手紙の場」は、オペラ『エフゲニー・オネーギン』最高の聴きものであるだけでなく、昔から芸術の素材になってきた「恋文を書く女」の魅力の最高峰なのではないだろうか。チャイコフスキーはプーシキンの詩を得て、ゆれ動く女性の心を精緻に、そして妖しく描き出した。誰だってこれを聴けばタチアーナに魅了される。そしてタチアーナが「あなたは誰? わたしの天使か守護者なの?それともいけない誘惑者なの?」と呼びかける相手であるオネーギンが、冷たくタチアーナを説教するのが許せなくなる。
一体どうなるんだろう? いや、原作はプーシキンの名作なのだから、結末は皆知っている。どんなにオネーギンが情熱的に口説いても、どんなにタチアーナの気持ちがゆらいでも、2人が新たな恋を始める見込みはない。タチアーナはその場を去り、オネーギンの絶望で幕がおりる。それでも手に汗握る。『エフゲニー・オネーギン』は幕切れでオペラの劇的な緊張が最大限に高まる。確かにプーシキンもチャイコフスキーも、ドラマを作る名人だった。オネーギンの口説きが熱を帯び、タチアーナの守りが崩れそうになると、つい思ってしまう。もしかしたら......? 自分が(タチアーナ/オネーギン)だったら......。
このオペラで最も美しい歌を歌うのは、タチアーナでもオネーギンでもない。タチアーナの妹の婚約者でオネーギンの親友、レンスキーだ。第2幕でレンスキーはオネーギンとの決闘に臨む前に「どこに行ってしまったのか」と美しくも哀しいアリアを歌う。過ぎ去った美しい日々を思い、心の奥の不安を歌う。テノールが歌う最も人気の高いアリアの一つに数えられるこの歌は、悲哀に満ちている。レンスキーはこの後決闘で命を落とすのだが、歌の後ではその死は自明に感じられる。これは死を目前にした者の歌なのだ。
2つの決裂 | 第1幕ではオネーギンがタチアーナの愛を拒み、第3幕ではタチアーナがオネーギンの愛を拒む。『エフゲニー・オネーギン』は2つの拒絶の上に構築されている。オネーギンは説教して拒み、タチアーナは愛を告白して拒む。どちらが美しいかは歴然としている。 |
2つの舞曲 | このオペラでは2つの舞踏会が開かれる。タチアーナの実家、ラーリナ家のサロンで開かれる和やかな舞踏会ではワルツが、ペテルブルクの華やかな夜会ではポロネーズだ。親密なワルツも華麗なポロネーズも、舞曲の名人チャイコフスキーならでは。『エフゲニー・オネーギン』は2つの舞曲の上に構築されている。 |
姉と妹 | 『エフゲニー・オネーギン』はタチアーナと妹の二重唱で幕をあける。やがて姉妹の母親と乳母が加わって四重唱になる。こののどかな始まりが、聴く者をロシアの田舎の平和な世界へと連れていく。オペラのとりわけ魅力的な始まりじゃないだろうか。 |
女と男、男と男 | 主題はタチアーナとオネーギン、つまり女と男の関係なのだが、第2幕ではオネーギンとレンスキー、つまり男と男の関係も描かれる。絆の深さはこちらのほうかもしれない。 |
オペラの名作はバレエの名作に通じている。ジョン・クランコが振付けた「オネーギン」はオペラ『エフゲニー・オネーギン』のバレエ版にとどまらないドラマティック・バレエの名作として広く親しまれている。チャイコフスキーの音楽が使われているが、オペラ『エフゲニー・オネーギン』ではない。だがバレエ「オネーギン」でも幕切れのタチヤーナとオネーギンの場は聴きもの、ではなくて見ものだ。タチヤーナは苦悩しつつ、とりすがるオネーギンを美しく拒絶する。
シュツットガルト・バレエ団
2022年日本公演決定!
https://www.nbs.or.jp/publish/news/2021/10/2022.html
Photos: Stuttgart Ballet
監修:堀内修