オペラを楽しみたい方のために、1回1作品をご紹介します。音楽評論家堀内修さんが選ぶ3つの扉から、オペラの世界へお進みください。
ヴィオレッタは迷う。本気で言い寄って来た青年を受け入れるべきか、これまで通りの享楽的な暮らしをすべきか? 『椿姫』第1幕はヒロインの長大な迷いの歌でしめくくられる。前半の「ああ、あの方なのね」でいま会ったアルフレードへの想いを歌ったヴィオレッタは、それを打ち消すように後半の「花から花へ」で、自分にはいまのような享楽的で浮ついた暮らしが合っているのだと歌う。ヴィオレッタがどちらを選んだのか、はっきりわかるのは第2幕の幕が上がってから。恋人と一緒に暮らしているのだから、恋を選んだのだ。だが「花から花へ」の華やかさは圧巻で、聴く者はそれが虚飾の歌で、前半の「ああ、あの方なのね」で彼女の真情が歌われていたのだと知った後でさえ、享楽的な世界に魅了されてしまう。ヴィオレッタの「真実の愛」は、確かにぎりぎりの選択だった。
『椿姫』の決定的な出来事は第2幕の、ヴィオレッタとアルフレードの父ジェルモンの二重唱で起こる。ヴィオレッタはここで愛を断念するのだ。19世紀の道徳的な市民社会がひとりの女の愛を圧殺する。アルフレードの妹が結婚することになったので、ここはひとつ身を引いていただいて......もっともらしいジェルモンの歌に追いつめられて恋をあきらめるヴィオレッタの歌は悲痛極まりない。これは19世紀の出来事で、現在は違うと信じていてさえ涙を誘われる。いまでも起こり得ると知っていればなおさら。
アルフレードの父ジェルモンは、真実の愛に走ったヴィオレッタからその愛を奪う張本人だ。19世紀の悪しき社会を代表している。このオペラのいわば悪役なのだけれど、ジェルモンが第2幕で息子に語りかける「プロヴァンスの陸と海」は慈愛に満ちたバリトンのアリアとして人気が高い。語りかけられたアルフレードは言いくるめられないが、客席は受け入れて盛大な拍手を浴びせたりする。受け入れるのはとりも直さず、愛し合う者を引き裂く冷たい社会への加担なのだから、ジェルモンは実に困った歌を歌うのだ。
肺の病い | 第1幕で咳き込んだヴィオレッタをアルフレードが心配して二人は接近する。若くして亡くなるヴィオレッタの死因は肺病だった。現代なら治るが当時は死に至る不治の病いだった。ヴィオレッタは恋の病いと肺の病い、二つの難病にかかる。いまならどちらも治るかもしれない。 |
椿の花 | ヴィオレッタのシンボルは椿の花だった。開業中は白で休業の時は赤、なんて話もあるが、椿は日本から伝来した、当時のパリでは貴重で高価な花だった。高級娼婦ヴィオレッタはいつもこの花を飾ってオペラ座桟敷席などに現れていたわけだ。 |
高級娼婦 | 娼婦にもピンからキリまであって(伝聞です)ヴィオレッタはピンに属していた。本当のところは差別され、社会から受け入れられてはいなかったのだが、同時に一種のスターでもあった。ヴィオレッタの評判は高く、プロヴァンスの田舎から来たアルフレードはパリの人気高級娼婦ヴィオレッタに憧れを抱く。 |
謝肉祭 | 寒いパリの、謝肉祭の喧騒が届く一室で、ヴィオレッタは息を引き取る。モデルになった実在の人物マリー・デュプレシが亡くなったのは23歳だった。 |
監修:堀内修