オペラを楽しみたい方のために、1回1作品をご紹介します。音楽評論家堀内修さんが選ぶ3つの扉から、オペラの世界へお進みください。
めくるめく歌がオペラをしめくくる。水車小屋のあぶなっかしい橋の上にアミーナが現れ、村人たちや客席の人たちが驚いて見守ってから息を抜く間もない。絶望が明らかにされ「ああ花よ、こんなに早く萎れてしまうとは」の単純だが深い抒情をたたえた歌にかかるころには誰もがかわいそうな女への共感を抱かずにいられなくなる。そしてアミーナが目醒め、真実が明らかになると、絶望から歓喜への劇的な転換が起る。あぶない橋の上を疾走するような喜びの歌に、アミーナも恋人も、村人も客席も、めくるめく思いを味わう。
ちょっとひどい奴じゃないかな? 恋するアミーナが必死で無実を訴えているのに、エルヴィーノは受け入れるどころか、相手の手から指環をもぎとってしまう。第2幕の前半、エルヴィーノが「すべては終わってしまった」と嘆く歌で始まる場面は、ほとんど正視できない。それでもあとでこの男を許し、2人の仲を祝福したくなるのは、エルヴィーノが「それでも忘れられない」と告白するだけでなく、テノールの美しい高音で自分の魅力をアピールするせいだ。
あぶない橋の上に萎れた花を手にしたアミーナが現れ、悲しい歌を歌う。「スウェーデンのナイチンゲール」として一世を風靡したジェニー・リンドが歌って、『夢遊病の女』はヨーロッパ中で大ヒットした。
[アミーナを演じるジェニー・リンドが描かれた絵]
オペラの舞台になっているスイスの山間の村は美しく、とても住み心地が良さそうだ。そう感じられるのは、第1幕で馬車に乗ってやって来る紳士が穏やかにこの地を讃える歌のおかげだろう。謎の紳士はこのあたりの領主となった伯爵で、実はここで少年時代を過ごしている。伯爵のバリトンが優しく歌う歌は、山の清々しい空気を作り出す。ちっとも華やかな歌ではないけれど、牧歌劇の美しさがロマン派オペラの先駆けとなる『夢遊病の女』の核を作っている。
夢遊病 | なーんだ、アミーナは夢遊病だったんだ! 本当に良かった! 歴とした病気なのだけれど、なぜか軽く扱われる。いま夢遊病は治療できる病いという。 |
指環 | まずエルヴィーノがアミーナに渡し、次に取り戻す。そしてまた指にはめてあげる。指環は幸福と不幸のあいだを行き来する。 |
悪い女 | 村の旅館の女主人リーザはアミーナの恋敵で、悪だくみをしてアミーナを陥れるが失敗する。悪い女だが恋心から出た悪意なので許される。『夢遊病の女』は牧歌的喜劇だ。 |
牧歌劇 | 『夢遊病の女』が初演された翌年、同じミラノでドニゼッティの『愛の妙薬』が世に出る。どちらもロマーニの台本による美しい山村を舞台にした新しい時代の牧歌劇だった。 |
監修:堀内修