オペラを楽しみたい方のために、1回1作品をご紹介します。音楽評論家堀内修さんが選ぶ3つの扉から、オペラの世界へお進みください。
いい歌だけど、ソプラノのためのフツーのアリアじゃありませんか? ワーグナーの「総合芸術」を期待する人はちょっと腰くだけになる。確かに第2幕の冒頭でエリーザベトが歌う「歌の殿堂」のアリアは多くのイタリア・オペラで歌われるヒロイン登場に似ている。でも異様な高揚感で歌われるアリアを聴くうち、自分がまるで世界の中心に誘われているような気になることがある。エリーザベトが挨拶している歌の殿堂はヴァルトブルク城の広間であると同時に、すべての歌劇場のシンボルでもある。作った当時のワーグナーは革命家で、芸術を社会の中心にすえた世界を考えていたのだから、こここそ世界の中心というわけだ。聴く者はこの歌でエリーザベトの気持ちの高ぶりを共に味わい、世界の中心である歌劇場に導かれる。
では歌劇場で何が行われるのか? 第2幕でくり広げられる歌合戦のテーマは「愛」だ。騎士たちが清らかな愛を歌い、賞賛されるが、タンホイザーは苛立つ。別にまちがっちゃいないが、そんな無害な意見ばかりでいいのか? そしてヴェーヌスと官能の愛の賛美を歌い出す。歌の殿堂は安全無害で退屈な場ではなかった。万人に認められた意見を聞きながら居眠りする場所でなくなった広間で起こった事件のなんとスリリングで活気にあふれていることだろう。歌合戦に参加した騎士やヴァルトブルク城の貴人たちは皆憤るけれど、手に汗握って見守る客席は、常識がひっくり返されるこの騒動を楽しみ、歌劇場にやってきた喜びを心ゆくまで味わう。
タンホイザーは魅力的(でちょっとこわい)ヴェーヌスベルクから逃れる。
■カステルッチ演出『タンホイザー』
(バイエルン国立歌劇場2017 年日本公演より)
Photo: Kiyonori Hasegawa
歌の殿堂(崩壊しかけている?)で行われるのは緊迫した芸術の対決だ。
■オールデン演出『タンホイザー』
(バイエルン国立歌劇場2005 年日本公演より)
Photo: Kiyonori Hasegawa
①このオペラの主役はやっぱりタンホイザーで、タンホイザーの最大の歌い場は第3幕の「ローマ語り」だ。はるばるローマへ行って、救われなかった話を語るあるいは歌う、のだけれど、聴きながら感情移入してしまう。いやあ、かわいそうに! 自分が一緒にローマへのつらい旅をしたような気になることだってある。
②このオペラで最もロマンティックな歌を歌うのは、タンホイザーでもエリーザベトでもない。第3幕で「夕星の歌」を歌うバリトンのヴォルフラムだ。恐ろしい夜の闇を照らしてくれる夕星に、ヴォルフラムは天使となるエリーザベトを見守ってくれるよう祈る。
実在した登場人物たち | タンホイザーもヴォルフラムもヴァルターも実在した騎士たちで、エリーザベトは聖エリーザベト、つまり聖人だ。 |
ヴァルトブルク城 | アイゼナッハの近くの小高い丘の上に、いまもヴァルトブルク城は建っている。歌合戦の伝説が残り、ルターが聖書を翻訳した場所としても知られている。といっても現在の城は、廃墟になっていたのを19世紀に直したもの。ホテルもある。 |
巡礼 | 第1幕と第3幕に巡礼の合唱が登場する。『タンホイザー』は巡礼のオペラで合唱のオペラだ。 |
杖 | ローマに行ったタンホイザーは、ローマ教皇に、ヴェーヌスベルクへ行った者はこの杖に芽が出て葉が茂ることのない限り赦されないと告げられた。幕切れで杖に葉が茂る。 |
芸術と芸術家 | タンホイザーは中世の吟遊詩人、つまり芸術家だ。『タンホイザー』は芸術家を主人公にした芸術をめぐるオペラということになる。ではタンホイザーの芸術は何かというと、やっぱり第2幕で歌われるヴェーヌス賛歌になるのだろうか。 |
ヴェーヌスベルク | 地下にある、古代の女神ヴェーヌスの王国で、美しいニンフたちもいる。キリスト教の倫理とは無縁の楽園だ。 |
監修:堀内修