オペラを楽しみたい方のために、1回1作品をご紹介します。音楽評論家堀内修さんが選ぶ3つの扉から、オペラの世界へお進みください。
これぞテノールのアリアの決定版として知られているのが、第2幕でネモリーノが歌う「人知れぬ涙」だ。この歌を聴きに『愛の妙薬』に行くという人だっているくらい。ハープの前奏が始まるだけで、客席の誰もが身を乗り出す。抒情的で美しい歌なのだが、実はこのアリア、ただ美しいだけじゃない。ネモリーノがアディーナへの愛を歌うのは確かなのだけれど、タイトルの「涙」の通り悲しんでいるのか、それともアディーナの本心を知って喜んでいるのか、微妙なところがある。悲し気な表情と嬉しい気持ちの両方を含んだ歌というべきなのだろうが、歌うテノールの腕の見せどころになる。以前ならルチアーノ・パヴァロッティ、いまならファン・ディエゴ・フローレスのような大スターの、真価が発揮される歌でもある。
ちっとも愛し合っていない男女の二重唱には特別な魅力がある。モーツァルト『魔笛』のパミーナとパパゲーノの二重唱に勝るとも劣らない、調和と距離感の保たれた歌が第2幕で、アディーナとドゥルカマーラによって歌われる。アディーナはすでにネモリーノの思いを受け入れるようになっている。一方ドゥルカマーラはというと、能天気にインチキ薬を売りつけようとしている。歌の中でアディーナの気持ちは次第に高まり、ドゥルカマーラもアディーナに感心し、温かく見守るようになっていく。「人知れぬ涙」が例外的なのに対し、こちらの二重唱は明るく調子がいい、典型的なオペラ・ブッファの愉快な二重唱だ。でもこの歌でオペラ『愛の妙薬』は気持ちの良いハッピー・エンドへと導かれる。女と男の適度な距離感と微笑ましさを備えた二重唱は、この美しい牧歌劇の頂点でもある。
この口上を聞いたら自分だって買ってしまうかもしれないなぁ、と思う。インチキ薬売りドゥルカマーラの口上は天下一品だ。これからガマの油売りで街頭に立とうと計画している人がいたら、必ず学ぶべきがこの歌ではないか。にぎやかに、というより華々しく村にやってくると、集まった村人たちにドゥルカマーラは薬の宣伝を始める。歌の技術のあの手この手をくり出して歌われると、健康な村娘だって病気になった時のために、2つ3つ買い求めようかという気になる。ましてや恋の病いを患っているネモリーノなら、全財産をつぎ込んで愛の薬を買おうとする。「さあさあ村の皆さん!」ドゥルカマーラがこう歌いかけたら、どこの村の人だって財布を手にして駆けつける。
村 | 移住するならこの村がいい。バスク地方にある村はとても住み心地が良さそう。村人は善良だし、チーズケーキもきっとおいしい。ワインなら近くにボルドーがある。 |
牧歌劇 | 伝統的な牧歌劇がロマン派に結びついた。『愛の妙薬』は珠玉の牧歌劇オペラだ。 |
遺産 | 第2幕でネモリーノが急に村娘たちからチヤホヤされるのは、伯父さんの莫大な遺産が入ったという噂が伝わったせい。本当に効くのはクスリよりも遺産かもしれない。 |
クスリ | ドゥルカマーラがネモリーノに売りつけたクスリの中身はワインだった。本人にはまちがいなく効くが、恋する相手には効くかどうかわからない。 |
トリスタンとイゾルデ | アディーナが村人に読んで聞かせるのはトリスタンとイゾルデの物語だった。『愛の妙薬』から30年ばかり後にワーグナーが作る『トリスタンとイゾルデ』にも愛のクスリが出てくる。どちらのクスリも結局のところ効く。 |
監修:堀内修
NBSの〈旬の名歌手シリーズIII〉では、リセット・オロペサとルカ・サルシの豪華顔合わせ。ソロはもとよりですが、この二人による二重唱が聴けるのも魅力です。『愛の妙薬』のアディーナとドゥルカマーラの二重唱"何という愛情~やさしい流し目" は9月23日(金・祝)のラストを飾る予定です。