オペラを楽しみたい方のために、1回1作品をご紹介します。音楽評論家堀内修さんが選ぶ3つの扉から、オペラの世界へお進みください。
糸を紡いでいた仲間の娘たちが見つめる中、ゼンタが異様な歌を歌い始める。「ゼンタのバラード」だ。歌とともに空気が変わり、この世のものならぬ雰囲気に支配される。思いつめたゼンタが歌うのはオランダ人のつらい運命と、その運命に心からの共感を寄せるゼンタ自身の決意だ。わっ! 何が始まってしまったんだ! 取り囲む娘たちだけでなく、客席にいる者も驚く。これこそ後にワーグナー『ローエングリン』でエルザが歌う「エルザの夢」やプッチーニ『蝶々夫人』で蝶々さんが歌う「ある晴れた日に」に先駆けて出現した夢の勝利の歌なのだ。この歌でゼンタの妄想は真実になり、つまらない現実が蹴散らされる。オランダ人が現れて、夢が成就することになるというオペラの支点がこの歌にある。作者ワーグナーはこの歌から作り始めたというが、当然だろう。
あれよあれよ! と話が進む。オランダ人のところに急ごうとするゼンタに、婚約者エリックが取りすがる。嫌がっているのもかまわず、自分に永遠の愛を誓ったじゃないかと口説くエリックの言葉をオランダ人が聞いてしまった。「もうおしまいだ!」オランダ人は出航を決め、自分こそあの呪われたさまよえるオランダ人なのだと名乗って船に乗り込む。近づこうとするゼンタを、エリックが必死に止めている。そして船が出発し、ゼンタが真の誠を捧げると言って海に飛び込むまで、あっという間だ。オランダ人もゼンタも、エリックも村人たちも、もちろん聴いている人たちだって落ち着いている暇はない。『さまよえるオランダ人』は興奮のうちに幕を下ろす。昔のようにゼンタとオランダ人が抱き合って昇天する、なんて演出の上演はもうないけれど、この興奮がオペラの達成感をもたらしてくれる。
長い。でも引き込まれる。上陸したオランダ人が歌うモノローグは、誰かに語りかけているわけじゃない、文字通りのモノローグで、人を退屈させたっておかしくないのだが、すぐれたバリトンが歌えば退屈なんてできない。自分の呪われた運命を語り、空しく終わった努力を嘆き、絶望と永遠の滅びを懇願する歌なのに、変化し、気持ちを高めていく音楽の力に負けてしまうことになる。歌うオランダ人は呪われた男で、陰鬱な幽霊船の船長だからオペラの主人公としては少々問題があるはずなのだけれど、この「7年の時が過ぎた」と歌うモノローグは、問題ある主人公を風変わりで魅力的なヒーローに仕立ててしまう。
海 | 海で始まり海で終わる。出航場面があれば沈没場面もある。『さまよえるオランダ人』は海のオペラだ。 |
海の男 | オランダ人は海の男でエリックは猟師、つまり山の男だ。このオペラで優勢なのは当然海の男のほう。 |
居眠り | ダーラントの船の舵取りは見張り役だったにもかかわらず、眠り込んでしまった。幽霊船は誰も知らないうちに現れる。 |
幽霊船の出現 | 真っ赤な帆の幽霊船が暗い夜の海に現れるのはこのオペラの印象的な場面だ。といっても最近はこれを出さない上演が多い。それでも息を飲むのは、印象的なのが、場面というよりその音楽の威力である証しというべきだろう。 |
船乗りたちと娘たち | ダーラントの船の船員たちが歌えば幽霊船の船員たちも歌う。娘たちだって「糸紡ぎの歌」でその場の主役を務める。『さまよえるオランダ人』は合唱のオペラだ。 |
呪い | 嵐の中、岬を回ろうとしたオランダ人は決して後に退いたりしないぞと誓った。これを聞いた悪魔が、望み通りにしてやろうと、永遠に海をさまよう運命を与えた。神は7年に1度の上陸を認める。でも誓いには気をつけようという教訓がこのオペラの主題ではない。 |
肖像画 | ゼンタはオランダ人の肖像画を見て夢中になる。ゼンタがずっとその肖像画を抱えているという舞台もあった。 |
蒼ざめた男 | オランダ人は蒼ざめた海の男だ。二枚目の役ではあるのだが、昔の上演は7年も海をさまよい続けたのを重視し、蒼ざめた顔色の、お化けのような男として描くことが多かった。 |
3幕のオペラ | 一応3幕のオペラだけれど、作者の意向もあって、休みなしの1幕のオペラとして上演されることも多い。 |
監修:堀内修