オペラを楽しみたい方のために、1回1作品をご紹介します。音楽評論家堀内修さんが選ぶ3つの扉から、オペラの世界へお進みください。
第1幕にオペラ史上一、二を争う、恋に落ちる歌がある。まずロドルフォが「冷たい手を」を歌い、ミミが「私の名はミミ」で応える。そして「愛らしい乙女よ」で恋の成就が宣言される。二つのアリアと二重唱だが、合わせても15分とかからない。ひとまとまりの歌と考えてもいいくらいだ。だがこの一連の歌で聴く者の誰もが恋の成立を実感する。オペラなら珍しくないように思えるが、実は恋の成立を真正面から描く例は多くない。プッチーニはここで稀に見る力業をやってのけた。ロドルフォが偶然のようにミミの手を取るときから、歌は不思議な上昇を始め、驚くべき高みに達する。応えるミミの歌も、何気なくゆれ動きながら、春の日を浴びるところで青空に飛ぶ。次の二重唱に入る前に、恋は成立してしまう。原作はどうあれ、プッチーニはこのオペラを2人の恋の物語にしてしまったのだが、それが空前の成功につながった。二重唱で第1幕は終るのだが、優れたソプラノとテノールが歌う限り、必ず恋を実感できる。それはオペラでも特別な瞬間だ。
『ボエーム』の第3幕は別れの幕だ。ミミとロドルフォ、ムゼッタとマルチェッロがそれぞれ相手と別れる。この幕をしめくくるのが「さようなら甘い目覚めよ」の四重唱で、すばらしく甘美で感傷的な四重唱なのだが、ここに至るまで歌は途切れなく続いていて、第3幕全体が別れの歌で成り立っているようなもの。だが2組の別れの歌がこの四重唱で一つになって、別離がまるで交響楽のように響くのを聴くのは格別な体験だ。2組の別れの理由は当然ながら異なっている。ミミは病気なのに貧しいロドルフォは面倒を見ることができない。ミミはロドルフォの心配を申し訳なく思っている。一方ムゼッタとマルチェッロは互いに元気が良過ぎ、たびたび衝突している。手を取り合って別れる2人と言い争って別れる2人が四重唱に流れ込む。それぞれの事情はいつのまにか別れそのものに昇華していく。
クリスマス・イヴのパリ、カフェ・モミュスでは滅多に見られない場面が見られる。いや、滅多に聴けない歌が聴ける。ロマン派オペラの定番というべき、艶っぽい女性による誘惑の歌なのだが、この歌は並じゃない。ロドルフォたちと一緒のテーブルに座るマルチェッロの近くに、パトロンらしき金持ちの男を連れてムゼッタが現れる。2人は恋人だったがこの時はもう別れている。でもどうやら本心では互いに恋心を捨ててはいないようだ。そしてムゼッタが歌い始める。「私が街を歩くと」。歌は艶を帯び、マルチェッロにまとわりつく。最初は知らん顔をしているが、次第にがまんできなくなる。その気になるのがマルチェッロだけとは限らない。客席にいる人も誘惑に抵抗できなくなっていく。そしてとうとう......。この歌、技術的な困難があるわけではないが、誘惑効果を十分に発揮するのは難しい。一流のプラノだって、上手に歌ったところにとどまったりする。でも成功したときの力は絶大だ。混雑したカフェの中で歌われ、会場は手に汗を握って聴く。効き目がないのはムゼッタの連れの男だけ。
クリスマス・イヴ | ロドルフォたちは人々でにぎわうクリスマス・イヴのパリに繰り出す。『ボエーム』 はクリスマスの恋のオペラだ。 |
カフェ・モミュス | 皆が腰を落ちつけるカフェ・モミュスは、多分カルチェ・ラタンにある。値段は安くなさそう。 |
灯り | ミミは消えてしまったローソクの火を借りようとロドルフォの部屋にやってくる。自分で灯りを消すという上演もあった。 |
鍵 | ミミは鍵を落とし、ロドルフォがその鍵を一緒に探す。鍵が恋の鍵だった。 |
冷たい手 | ロドルフォはミミの冷たい手に驚いて歌い出す。暖めたいと思うからだが、手の冷たさは現在よりもっと、女性の魅力とされていた。 |
病気 | ミミは病弱で、長生きできない。手の冷たさも、肌の青白さも、当時の魅力になっていたらしい。 |
帽子にマフ | ミミは寒い。ロドルフォは帽子を贈り、ムゼッタは死の床のミミにマフを渡す。 |
監修:堀内修