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NBS日本舞台芸術振興会
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2023/03/15(水)Vol.466

愛と欲望、そして3つの死
〜プッチーニ『トスカ』
2023/03/15(水)
2023年03月15日号
オペラはなにがおもしろい
特集

愛と欲望、そして3つの死
〜プッチーニ『トスカ』

オペラを楽しみたい方のために、1回1作品をご紹介します。音楽評論家堀内修さんが選ぶ3つの扉から、オペラの世界へお進みください。

ざっくり、こんな作品

  • 1800年のローマ市民は恐怖におののいていた。王党派の警視総監スカルピアが、共和派を苛烈に弾圧していたからだ。脱走した囚人を追って、手下を連れたスカルピアが教会にやって来た。だが囚人の姿はない。実は教会で絵を描いていた画家カヴァラドッシが、同志である囚人を逃した後だった。スカルピアは画家に目をつけるが、それは画家の恋人である人気歌手トスカへの欲望からでもあった。
    戦勝祝賀会で歌ったトスカが、ファルネーゼ宮殿内のスカルピアの執務室を訪れた。スカルピアはカヴァラドッシを捕らえて拷問し、たとえ本人が黙っていても、トスカの口から逃亡した囚人の居場所を聞き出そうとしている。その目論見は成功した。だがスカルピアの本当の狙いはトスカの肉体だった。恋人の処刑をちらつかせるスカルピアに、トスカは身体をさし出すのを承知し、そのかわりに恋人と自分の安全を確保する条件を出す。スカルピアは真似事の処刑の後で解放すると約束した。迫るスカルピアにトスカが与えたのは肉体ではなく死だった。
    聖アンジェロ城の屋上で、カヴァラドッシの銃殺刑が行われようとしていた。駆けつけたトスカが恋人に、銃殺が見せかけで、死んだふりをすればその後は自由だと告げる。だが銃殺は見せかけではなかった。トスカが恋人の死を知った時、スカルピアの死体を見つけた警吏たちが屋上に駆け上がって来た。追手を振り切り、トスカは屋上から身を躍らせた。
  • プッチーニ作曲、イッリカとジャコーザ作詞 全3幕、イタリア語/1900年、ローマ、コスタンツィ劇場初演

聴いてびっくり


もうすぐ銃殺される。カヴァラドッシは怖れを、そしてこれまでの人生を歌・・ったりしない。歌うのはもっぱらトスカへの愛だ。第3幕で「星は光りぬ」を歌う時、カヴァラドッシは第2幕で起こったトスカによるスカルピア殺害を知らない。夜が明けきれば自分は処刑されるだろう。だがカヴァラドッシは死への怖れや人生についてではなく、トスカへの愛を歌う。作詞者は反対したが、プッチーニはゆずらなかった。「星は光りぬ」だけではない。第1幕のアリア「妙なる調和」でも歌われるのはトスカへの愛だ。政治的緊張あり拷問あり殺人事件ありのオペラ『トスカ』で、カヴァラドッシはひたすらトスカへの愛を歌う。プッチーニがそう望んだ。『トスカ』は何より愛のオペラだ。星の輝く夜、甘い香りとともにトスカがやって来る! 甘いキッスに優しい愛撫......。第2幕で予告されたアリアの旋律は、クライマックスの最高音に向かって高まっていく。死を目前にした甘美な歌はテノールの代表的名アリアとなり、『トスカ』は人気オペラになった。

『トスカ』第3幕 ヴィットリオ・グリゴーロ演じるカヴァラドッシ(ローマ歌劇場2021年公演より)

Photo: Fabrizio Sansoni-Opera di Roma

見てびっくり


同じトスカへの想いでもカヴァラドッシと対照的なのがスカルピアだ。第1幕の終わりでスカルピアが歌うのはトスカへの欲望だ。悪の警視総監は、自分の腕に抱かれ、官能の喜びにあえぐトスカの姿を思い描く。これ以上明快になり得ないほどの悪の権化であるスカルピアは、これ以上明快になり得ないほどの欲望の権化でもある。トスカの肉体を手に入れ、その恋人カヴァラドッシを処刑する。少なくともその華麗さにおいて、スカルピアの欲望はカヴァラドッシの愛を上回っている。『トスカ』第1幕の終わりは、オペラ有数の絢爛たる場面だ。バロックの聖堂でくりひろげられる戦勝祝いの「テ・デウム」は視覚的な華やかさ十分だが、それ以上に響き渡る管弦楽と大合唱が、絢爛豪華な第1幕のフィナーレを作り上げる。そしてそのまん中を、スカルピアの欲望が貫く。絢爛たる欲望が『トスカ』第1幕の幕を閉じる。

フランコ・ゼッフィレッリ演出『トスカ』第1幕フィナーレ(ローマ歌劇場2008年公演より)

Photo: C. M. Falsini-Teatro dell'Opera di Roma

この人を聴け


第2幕は第1幕とは正反対に、静かに終わる。穏やかな幕だったのか? とんでもない。拷問と悲鳴、情欲と殺人の常規を逸したドラマがくり広げられる。この幕で「歌に生き、恋に生き」が歌われる。トスカが歌うイタリア・オペラ屈指のソプラノのアリアは、一見するとただの嘆きの歌のようだ。正しく生きているのにどうしてこんな目に会わなくてはいけないの? でも、どうして? という問いが緊迫感をもって歌われる時、歌は普遍的な「なぜ?」に達する。まじめに暮らしているのに、なぜ戦争が起こるのか? なぜ大地震に襲われるのか? なぜ......。恋人が拷問され、嫌な相手に迫られたトスカの嘆きは、この歌で暴力に支配された第2幕の世界と対峙する。スカルピアに追いつめられていたトスカが、進行するドラマをぴたりと止めて歌うと、カヴァラドッシだけでなく、客席にいる誰もが、これからトスカが犯す罪を許してしまう。殺人と、そして信仰が禁じる自殺だ。歌に生き、恋に生きる女の歌は恐るべき力を持っている。

フランコ・ゼッフィレッリ演出『トスカ』第2幕 スカルピアを刺殺したトスカは「これがトスカのキッス」と言う。(ローマ歌劇場2008年公演より)

Photo: C. M. Falsini-Teatro dell'Opera di Roma

鍵言葉キーワード

ローマ 第1幕は聖アンドレア・デラ・ヴァッレ教会、第2幕はファルネーゼ宮殿、第3幕は聖アンジェロ城。『トスカ』はローマのオペラだ。
1800年 事件は騒然とした1800年のローマで起こる。オペラ『トスカ』は1900年のローマで初演された。
人気歌手 トスカは歌姫、つまり人気歌手だった。スカルピアは憧れのスターをなんとかしようとして失敗する。
トスカのキッス スカルピアを刺殺したトスカは「これがトスカのキッス」と言う。トスカのキッスはとても危ない。
3つの死 3人の主役、トスカとカヴァラドッシとスカルピアは、3人とも舞台で死ぬ。刺殺に銃殺に飛び降り自殺だ。
勝利! ナポレオンのフランス軍が勝ったという報に、拷問されていたカヴァラドッシは「勝利だ!」と叫ぶ。本当にあったマレンゴの戦いの実際の結果がものを言った。
画家 カヴァラドッシは画家で、教会内でマグダラのマリアの絵を描いている。モデルは金髪のアッタヴァンティ夫人なのだが、画家は描きながら黒髪のトスカを賛美している。
嫉妬 トスカは信心深く、嫉妬心が強い女で、恋人に絵の訂正を求める。
黒い瞳 トスカの瞳は黒い。マグダラのマリアの眼を青から黒に変えるよう求められた画家に、多分変更する暇はなかった。
第4の死者 実は『トスカ』の死者は4人いる。最初に舞台に登場する脱走犯で共和派のアンジェロッティで、トスカが白状したおかげでスカルピアの手下に見つかり、自殺する。

監修:堀内修