2023/06/21(水)Vol.472
2023/06/21(水) | |
2023年06月21日号 | |
オペラはなにがおもしろい 特集 |
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オペラ |
オペラを楽しみたい方のために、1回1作品をご紹介します。音楽評論家堀内修さんが選ぶ3つの扉から、オペラの世界へお進みください。
第1幕で試験を受ける時には粗削りどころか、悪意ある試験官の裁定に賛成したくなるくらいだったヴァルターの歌がみるみる良くなっていく。第3幕でザックスの指導を受けると見違えるようになる。これならいける! 客席で聴いた人たちは魅力を認める。そして聖ヨハネ祭の大会本番を迎える。マイスターでない者に出場資格はないのだが、ザックスの紹介で登場したヴァルターが歌い始めると、空気が変わる。そうそう、この歌だ、優勝まちがいなし、と確信する。期待通り歌われる歌は、しかし聴く者の期待を超えて高揚していく。「優勝の歌」として知られるヴァルターの歌は、ニュルンベルクの市民と客席の聴衆の両方をびっくりさせる。ヴァルターの勝利を納得しない者はいない。『ニュルンベルクのマイスタージンガー』は、歌の生成のオペラで、芸術家誕生のオペラでもある。
こんなに幸福な歌があるだろうか! 第3幕でザックスの家に揃った5人が、さあ祝典の会場に出かけよう、という時に歌われる五重唱くらい幸福感にあふれた歌は他にない。少なくとも大悲劇作家ワーグナーにはない。ザックスのもとにヴァルターや恋人エファ、そしてザックスの弟子とその恋人が揃った。エファが「太陽が私の幸福に微笑みかけると」と歌い出すと、夏至の朝の清々しい空気であたりが満たされる。何人もがいっぺんに歌ったのでは、何が歌われているかわからなくなってしまう、という理由でオペラにおける重唱を否定したワーグナーが、ここでは自分でその禁を破っている。誰だって無理もないと思う。こんなに美しく、こんなに幸福な歌なのだから。5人はそれぞれの幸せな気持ちを歌う。空は晴れ上がっている。さあ行こう、お祭りだ。歌い終わった5人は出かけていく。そして『ニュルンベルクのマイスタージンガー』祭りの野原の場が始まる。
え、マイスターの試験に落ちた騎士じゃないか?疑って聴き始めたニュルンベルクの市民もヴァルターの歌に聴き惚れる。
『ニュルンベルクのマイスタージンガー』
(バイエルン国立歌劇場2005年日本公演)
Photo: Kiyonori Hasegawa
歌の生成をまん中にすえた芸術家のオペラ『ニュルンベルクのマイスタージンガー』だけれど、主役の芸術家はヴァルターではない。主役は教えられ、成長し、幸福を得る青年ではなく、生意気な青年を教え、成長させ、自分は幸福をあきらめる中年の男ハンス・ザックスのほうだ。実在した靴屋で詩人のザックスにワーグナーは自分自身を重ね合わせた。立派な人物ではあるけれど、善良というわけではない。エファに恋心を抱き、ライバルになる書記ベックメッサーをいじめる。計略をめぐらし、相手が自分から失脚するように仕向けるのだ。エファへの恋心を潔く断念するようでいて、未練を捨てきれない。でもこの弱さこそがザックスという人物を魅力的にしている。ザックスの魅力が浮かび上がるのが、第3幕で歌う、いわゆる「迷いのモノローグ」だ。なぜ人々は怒りにかられて戦うのか? なぜ......悩みから始まったモノローグは、花の香りを感じるところから明るい色調に転じ、ニュルンベルクの町と、そこで生きるザックス自身の活力を示していく。聴き入るうちにザックスとともに気持ちが変わるのを感じることができるはずだ。
ニュルンベルク | 舞台になっているだけでなく、16世紀のニュルンベルクはこのオペラの主役でもある。 |
マイスタージンガー | 昔は「職匠歌手」と訳されていた。仕事を持ち、詩作も行う市民のこと。 |
ハンス・ザックス | 実在したニュルンベルクの詩人・靴屋(1494〜1576)で、靴は残っていないが詩は残っている。 |
喜劇 | 当初『タンホイザー』と対になる喜劇として構想された。どちらにも芸術と芸術家が出てくる。 |
エファ | 強力なヒロインが出てくる他のワーグナー作品に比べ、エファはちっともパワフルじゃない。つまり親しみ易い。 |
ベックメッサーの歌 | 歌の大会で大失敗するベックメッサーの歌は、ヘンテコリンだが案外面白い。 |
花の香り | ザックスが第2幕で歌うのは「ニワトコの歌」で、オペラは花の香りがする。エルダーフラワーやエルダーベリーとして知られる花や実は、ジュースにして飲める。 |
大ゲンカ | 第2幕をしめくくるのはニュルンベルクの市民たちの大ゲンカだ。にぎやかで面白そう。 |
あきらめ | ザックスはエファへの想いをあきらめる。「諦念」はこの作品の主要なテーマでもある。 |
監修:堀内修