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2024/02/07(水)Vol.487

イゾルデは先に行ったトリスタンを追って夜の国へ向かった
〜ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』
2024/02/07(水)
2024年02月07日号
オペラはなにがおもしろい
特集

イゾルデは先に行ったトリスタンを追って夜の国へ向かった
〜ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』

オペラを楽しみたい方のために、1回1作品をご紹介します。音楽評論家堀内修さんが選ぶ3つの扉から、オペラの世界へお進みください。

ざっくり、こんな作品

  • 王女イゾルデと騎士トリスタンは互いに愛を感じていた。それなのにトリスタンは自分の仕えるマルケ王の妃としてイゾルデを迎えにやってきた。アイルランドからコーンウォールへと向かう船上で、事件は起こった。トリスタンを詰問するイゾルデが差し出した毒薬を、覚悟した2人が飲んでしまったのだ。その薬は毒薬でなく、愛の薬だった。
    王妃となったイゾルデとトリスタンは王が狩りに出るのを見計らって密会する。これが罠だった。情事は露見し、2人は王たちに囲まれる。罠をしかけた男と対決したトリスタンは傷を負い、逃亡する。
    トリスタンの領地で瀕死のトリスタンが待ち侘びているところに、イゾルデが到着した。だがイゾルデの腕の中でトリスタンは息絶える。王妃を追ってきたマルケ王たちの前で、イゾルデは恍惚としてトリスタンの後を追う。
  • ワーグナー作詞作曲、全3幕、ドイツ語/1865年、バイエルン宮廷歌劇場初演

聴いてびっくり


いつ果てるとも知れない愛の夜がくり広げられる。トリスタンとイゾルデのあいだにある「と」が邪魔になっても、見張る侍女の、まるで2人の陶酔を反映したような警告が聞こえても、やまない。やまないどころか深みへ深みへと落ちていく。第2幕の「愛の夜」くらい人を魅惑し、陶酔させる世界はほかにない。ワーグナーが到達した魔法の夜は、それを聴く健全な人にも危険な愛と死の国を体験させてしまう。第2幕にも一応オペラらしいドラマはある。恋人がやってくるのを待つイゾルデと侍女ブランゲーネのやりとりはあるし、陶酔的二重唱は王の一行の突然の乱入によって断ち切られる。そのあとの王の嘆きやトリスタンのすべてを覚悟した歌だってあるし、トリスタンが自ら死を求め、密告者メロートとの決闘?だってある。だがその出来事のすべてを、愛の夜が飲み込んでいる。トリスタンとイゾルデは第1幕で愛の薬を飲んだ。『トリスタンとイゾルデ』を聴く者は、この第2幕で、飲む。

見てびっくり


まるで争いが始まるよう。もうすぐコーンウォールの港に着くという船上で、王女イゾルデに呼びつけられたトリスタンが、彼女の前にやってきた。イゾルデは怒っている。トリスタンは押し黙っている。一体これが愛し合う男女なのだろうか。奇妙な緊迫感はこれから白熱した言い争いか、悪くすれば刃傷沙汰でも起りそう。「さあ、償いを!」とイゾルデがつめより、かねて用意した盃を差し出す。盃には毒薬が入っているはずだった。イゾルデは共に死のうとしているのだ。トリスタンが受け入れ、飲む。盃を奪ってイゾルデも飲む。侍女ブランゲーネが毒のかわりに愛の薬を入れたとも知らず。水夫の声が聞こえ、2人の長い沈黙がみるみるふくれ上がる管弦楽の雄弁によって限界に達する。薬が効いたかどうかは問題じゃない。でも堰は切られた。「トリスタン!」「イゾルデ!」呼びかける声が2人の行ってしまった世界から届くと、聴く者は怖れおののくほかない。とうとう越えてしまった!

第1幕、コーンウォールへ向かう船上に、トリスタンと従者クルヴェナル、イゾルデと侍女ブランゲーネがいる。

『トリスタンとイゾルデ』(ベルリン国立歌劇場2007年日本公演より)
Photo: Kiyonori Hasegawa

この歌を聴け


愛と死ならわかるけど、愛の死っておかしくないか? と思う人はしあわせだ。まだ『トリスタンとイゾルデ』を聴いていないからだ。愛と死が一つになった彼岸を垣間見るのはあぶない。でも『トリスタンとイゾルデ』を聴く以上、その危険を覚悟しなければならない。トリスタンの遺骸を前にしてイゾルデが歌う「愛の死」は、危険な恍惚をもたらす。至高の快楽に招かれて、誰が抵抗できるだろう。その恍惚は一瞬ではなく、続く。ワーグナーの発明した音楽は、終りに向かいながら終らず、果てしなくその恍惚の中に聴く者を捕らえる。もちろん「愛の死」は終り、『トリスタンとイゾルデ』の幕は下りるのだが、その響きが聴いた者の脳裏から消え去ることはない。イゾルデは愛の死を完遂し、聴き終えた者は愛の死にとりつかれる。

鍵言葉キーワード

軽いオペラ 大作《ニーベルングの指環》を作曲中だったワーグナーは、上演する見込みがないので、すぐ上演できる軽いオペラを作ろうとする。それがオペラ史を変える作品に化けてしまった。
前奏曲と
「愛の死」
始まりと終りをつなげたコンサート用の曲を作ったのはワーグナー自身だった。確かにこれで『トリスタン』の世界が伝わる。
船上で始まり海辺の城で終る。海と作品は通じている。ワーグナーはこれを湖の見える家で書き始め、ヴェネツィアで書き進め、湖の見えるホテルで書き終えた。
無限旋律 寄せては返す波のように、音楽は果てしなく続く。
王様 寛容なマルケ王は第2幕と第3幕の嘆きの歌で、現実世界と愛と死の世界を穏やかにつないでいる。
侍女と従者 イゾルデの侍女ブランゲーネとトリスタンの従者クルヴェナールは2人とも、主人と「愛と死」の世界に忠実に仕える。
悪人 メロートはトリスタンを裏切り、大ケガを負わせる悪役だが、実に影が薄い。
クスリ 死のクスリを、と命じられた侍女ブランゲーネが用意したのは愛のクスリだった。トリスタンとイゾルデは、やはり「愛と死」のクスリを飲んだというべきだろう。
イゾルデと
マティルデ
ワーグナーは人妻マティルデ・ヴェーゼンドンクとの恋愛の中からこの作品を生み出した。といってもマティルデがイゾルデのモデルというわけではない。
北から南 第1幕はアイルランドからコーンウォールへの船上で、第2幕はコーンウォール、そして第3幕はフランスのブルターニュで、物語の舞台は北から南へと進む。
傷を治す イゾルデは傷を治す秘術を知っている。だがトリスタンは治してもらおうとせず、死んでいった。
第2幕でトリスタンとイゾルデは愛と死とともに「夜」を賛美する。これは夜のオペラでもある。

監修:堀内修