2024/07/03(水)Vol.497
2024/07/03(水) | |
2024年07月03日号 | |
オペラはなにがおもしろい 特集 |
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オペラ |
オペラを楽しみたい方のために、1回1作品をご紹介します。音楽評論家堀内修さんが選ぶ3つの扉から、オペラの世界へお進みください。
横で見ている道化たちなどまるで眼中にないように、アリアドネが歌い始めた。「すべてが清らかな王国がある」。歌われるのはオペラのヒロインが歌う歌の原点というべき「アリアドネの嘆き」だ。クレタで迷宮に棲む怪物を退治するテーセウスを手助けしたアリアドネは、愛する男と共にクレタを出たのだが、不実なテーセウスによってここナクソス島に置き去りにされてしまったのだ。アリアドネの悲しみは深く、死だけを求めている。すべてが清らかな王国とは死の世界のことだ。妻を失った男の「オルフェウスの嘆き」と対になるような、愛を失った女の「アリアドネの嘆き」こそがオペラの出発点だと見定めたシュトラウスが、腕によりをかけて作ったアリアは、壮麗な美しさをたたえている。周囲で道化たちが出番をうかがっているという奇妙な情況なので、浮き上がっているのは確かなのだけれど、それが不思議な効果を生んでもいる。このオペラの知的な遊戯めいたところが、浮いたシリアスな歌ではっきりする。覚めたまま酔う歌の愉しみが味わえるというものだ。
『ナクソス島のアリアドネ』は美しく終わる。絶望するアリアドネが死の国からの使者と信じたのは愛の国からの使者というべきバッカスだった。2人は結ばれ、輝かしい愛の二重唱が響きわたる。愛を失った女が真実の愛を見出すアリアドネの奇跡だ。それは同時に、1人の男がいなくなれば新しい男を見つければいいだけ、というツェルビネッタの主張が実現する道化芝居のハッピーエンドでもある。シュトラウスとホフマンスタールの知的遊戯は、まるでパズルの最後の一片が収まるように、見事に完結する。聴く者だって、美しい二重唱に陶酔しながら、笑顔で「うまくやったなあ」と賞讃できるというもの。アリアドネはワーグナーのヒロインも歌う強力なソプラノの役だし、最後に出てきて歌うだけのバッカスだって、本格的ワーグナー・テノールが歌ってこその役だ。その2人が揃った時の効果は大きい。
『ナクソス島のアリアドネ』の主役はいうまでもなくアリアドネだ。題名にもその名が付いている。でも実際の上演でアリアドネこそ主役だ、と感じるとは限らない。ライバルというべきもうひとりのソプラノがとんでもない歌を歌うからだ。道化のリーダー、ツェルビネッタが「尊敬すべき王女様!」を歌うのは、いわば曲芸的な歌の極致だ。このオペラが作られた20世紀の初頭、装飾的歌唱、いわゆるコロラトゥーラ唱法は過去の遺物になっていた。ドニゼッティやベルリーニのベルカント・オペラは、『ルチア』などいくつかがかろうじて上演される程度だった。シュトラウスはわざと、その装飾的唱法を復活させた。難しい声の技なので、歌えるソプラノはほとんどいなかった。でも現在は歌える。エディタ・グルベローヴァの歌うツェルビネッタは日本でも人気を博したが、その後継者たちは易々とではないにしても、歌いこなしている。ツェルビネッタの至難の歌と、道徳に縛られない性格は、いまやアリアドネの歌に負けない舞台の華というべきだろう。
ナクソス島 | エーゲ海にあるギリシアの島で、アリアドネに飽きたテーセウスがここに彼女を置き去りにした。 |
アリアドネ | クレタの王ミノスの娘で、魔法の糸を使い、テーセウスが怪物ミノタウロスを倒すのを手助けした。 |
バッカス | ギリシアの神話のディオニソスのこと。ぶどうの神、祝祭の神で、オペラの神とも見なされている。 |
プロローグと オペラ |
『ばらの騎士』で成功したシュトラウスとホフマンスタールが作った小品は、モリエール〈町人貴族〉の劇中劇として上演されたが失敗し、作者たちはこれにプロローグを付け、新たにオペラ『ナクソス島のアリアドネ』として上演し、成功した。 |
プリマドンナと アリアドネ |
プロローグはオペラが始まる前の楽屋なので、オペラでアリアドネとして登場するソプラノは、プリマドンナとしてプロローグに登場する。 |
コンメディア・ デラルテ |
イタリアの即興喜劇で、16世紀に生まれ、現在も上演されている。ツェルビネッタたちはその俳優たちに設定されている。ハルレキンやスカラムーチョは登場するキャラクターの名だ。 |
アリアンナの 嘆き |
「アリアドネの嘆き」の元になったのはモンテヴェルディのオペラ『アリアンナ』(1608年初演)で歌われる「アリアンナの嘆き」(アリアンナはアリアドネと同じ)だ。オペラは現存しないがこの歌だけは残っていて、いまも歌われる。 |
ウィーンの オペラ |
舞台が18世紀ウィーンのさる富豪の館に設定されている『ナクソス島のアリアドネ』は、1916年にウィーンで改訂初演されて以来ウィーンのオペラとして知られている。日本でも1980年にウィーン国立歌劇場が初めて来日公演で上演して以来人気演目になっている。 |
監修:堀内修