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2024/09/04(水)Vol.501

マノンの誘惑に抵抗できる者はいない
マスネ『マノン』
2024/09/04(水)
2024年09月04日号
オペラはなにがおもしろい
特集

マノンの誘惑に抵抗できる者はいない
マスネ『マノン』

オペラを楽しみたい方のために、1回1作品をご紹介します。音楽評論家堀内修さんが選ぶ3つの扉から、オペラの世界へお進みください。

ざっくり、こんな作品

  • 騎士デ・グリューの運命はアミアンの宿場で変わる。変えたのは修道院に入れられるところだった魅力的な女性マノンだ。彼女を狙う男を出し抜いて逃げ出したデ・グリューは、パリでマノンと暮らし始める。でもそれからが大変だった。マノンは享楽的な女で、誘いがあると金持ちの男に走る。愛を求めてデ・グリューのもとに戻っても続くはずはない。彼女に逃げられた男は反撃に出るし、デ・グリューの父親はマノンを退けようとしている。捕らえられ、流刑に決まったマノンを、デ・グリューはなんとか取り戻そうとするが、その時もうマノンの生命は終わろうとしていた。デ・グリューの腕の中で、マノンは息を引き取る。
  • マスネ作曲、メイヤックとジル作詞 全5幕、フランス語/1884年、パリ、オペラ・コミック初演

聴いてびっくり


マノンは誘惑する。このオペラの、というよりあらゆるオペラの中で燦然と輝く誘惑場面は第3幕にある。聴けば誰もがオペラの誘惑者の王が『ドン・ジョヴァンニ』のドン・ジョヴァンニなら女王は『マノン』のマノンだと納得するはずだ。
パリ、サン・シュルピス教会で問題の場面は始まる。マノンへの想いを断ち切ったデ・グリューは神父となっている。これで父親も安心だ。父が去った後、自分に言い聞かせるように、デ・グリューが「消え去れ、甘い面影よ」と歌う。まだ未練が残っているとしてもこの決意の歌で吹っ切れるはず、デ・グリューは真剣だ。そこにマノンが現れる。さあ、マノンの誘惑が始まる。自分が捨てた男がようやくあきらめて信仰の道に入ったのだが、誘惑者の女王マノンにはそれが許せない。腕によりをかけて、マノンが神父デ・グリューに歌いかける。あなたが握っている手は私の手じゃないの? もう優しく愛撫はしてくれないの? ソプラノが自分自身の声の魅力を全開にして歌いかける。ソプラノだけじゃない。弦の甘い響きもまた、思いきり官能的にデ・グリューを愛撫する。最初はなんとか拒み、マノンが「私は罪深い女でした」と言ったりするのだけれど、教会で神父が罪深い女の手に落ちるまで、時間はかからない。だがこの短い時間のなんと濃厚なことだろう。互いに「愛してる」と歌い合うまで、未成年入場禁止にしてもいい二重唱が続く。オペラが、歌で人の心を変える力を、恥ずかし気もなく露わにする。

見てびっくり


君が握っている手は僕の手じゃないのかい? 今度はデ・グリューが歌いかける。第5幕、ル・アーブルへ向かう道の途中で、瀕死のマノンがデ・グリューに抱かれている。流刑地に送られるマノンとの別れにとどまらない。もう時間は残されていないのだ。わずかな命の時間に、2人は教会での甘美な時間を思い出している。思えば短いオペラの時間のあいだにマノンは人生を疾走した。愛人をこしらえただけでなく、恋もした。ちっとも道徳的じゃないけれど、少なからぬ人が妄想の中で憧れる人生というべきだろう。しかもいま、羨ましいことに、愛する者の腕の中で人生を終えようとしている。これでいいの、これがマノン・レスコーの物語よ。マノンがこうささやいてオペラが終わる時、管弦楽が華やかにその物語を祝福する。もしかしたら『マノン』はハッピーエンドの悲劇なのかもしれない。

マノンはパリの花形だ。第3幕、パリの遊歩道で男たちの目はマノンに釘付けになる。
サンシュルピス教会でマノンがデ·グリュー「神父」に迫る。無敵の誘惑者にはどんな固い決意も破れるほかない。

『マノン』(英国ロイヤル・オペラ)
Photos: ROH / BILL COOPER

この歌を聴け


駆け落ちしたマノンとデ・グリューのパリでの甘い生活も終わろうとしている。マノンは贅沢な女だし、愉しみに目がない、というより生き急いでいる。デ・グリューとの愛に満ちた暮らしも悪くないが、新しい相手も決まったし、移り時というものだ。マノン、おまえは女王になる! でも愛の暮らしを振りかえると感傷的な気分になる。思い出の小さなテーブルに別れを告げた。一方デ・グリューはというと、親の許しを得てマノンと結婚する気でいる。「目を閉じると」と2人が一緒に暮らすつつましい家を思い浮かべながらも、かすかな不安を感じつつ歌う。2人の気持ちが2つのアリアで見事に交錯する。ドアを叩く音が愛の暮らしの終わりを告げるのはその直後だった。スリリングな第2幕の幕がおりる。マノンとデ・グリューの物語は平坦じゃない。

鍵言葉キーワード

宿命の女 マノンは一世を風靡した宿命の女=ファム・ファタール=男を破滅させる魅力的な女の代表と見なされている。アベ・プレヴォの原作は18世紀だが、大流行するのは19世紀、ロマン主義の時代になってから。21世紀になって宿命の女はよみがえってきている。罪深い女から見事な生き方の女になって。
『マノン』と
『マノン・レスコー』
原作は何度もオペラ化されているが、今日上演されるのは2つで、マスネが『マノン』、プッチーニが『マノン・レスコー』と呼ばれる。
人気作家 マスネは19〜20世紀フランスの大人気オペラ作家で、『ウェルテル』や『タイス』などいくつものヒット作を生んでいる。『マノン』はその代表作だろう。
パリ 第1幕と第5幕以外ドラマはすべてパリで起こる。マノンはパリの女で『マノン』はパリのオペラだ。
賭博 賭博場で、しぶるデ・グリューはマノンにけしかけられて賭ける。これが大勝利で大金を手にする。マノンは賭博場の女王でもあった。
グランド・オペラ 『マノン』は5幕仕立てで、バレエもあり、立派にフランス・グランド・オペラの条件を備えている。でもオペラ座でなく、オペラ・コミックで初演された。
ブーム マノンを歌うソプラノが出現すると歌劇場が一斉に『マノン』を上演する。ナタリー・デセイにアンジェラ・ゲオルギューにルネ・フレミング、何よりアンナ・ネトレプコがこの役にふさわしかったころ、『マノン』の大ブームが起こった。東京では2010年に英国ロイヤル・オペラがネトレプコの歌う『マノン』を上演している。

監修:堀内修