オペラを楽しみたい方のために、1回1作品をご紹介します。音楽評論家堀内修さんが選ぶ3つの扉から、オペラの世界へお進みください。
ごく日常的な、何気ないシチュエーションで、この途方もなくドラマティックなアリアは歌われる。ピンカートンがアメリカに行って何年か後の蝶々さんの家で、蝶々さんとスズキが穏やかな昼さがりを過ごしている。でもスズキがピンカートンが戻ってくるのを疑うそぶりをすると、それをたしなめて蝶々さんが歌い始める。「ある晴れた日に」と歌われるのは、ある日の情景だ。海の彼方にひとすじの煙が見え、船が現われる。礼砲が鳴って港に入ってきた船にはあの人が乗っている。まだ船の姿が見えないどころか、歌われる出来事のすべてが蝶々さんの空想に過ぎない。だが歌が進むにつれ、とんでもないことが起きる。蝶々さんの愛と結婚が偽物であるのは登場人物の全員どころか、客席にいる者も知っている。本物だと信じているのは蝶々さんひとりだけだ。それが歌によって変わる。蝶々さんの空想がふくらむ。帰ってきた夫に呼ばれても返事をしないで隠れるのは「喜びで死んでしまわないように」なのだと歌う時、変化ははっきりする。蝶々さんの空想が常識の世界を圧倒し、蝶々さんの愛が真実となって勝利を収める。オペラがその全貌を現わす。強力なソプラノが歌う時、彼女が信じている愛こそが真実であると思わない者は、客席にいなくなる。
第2幕で「ある晴れた日に」が歌われ、蝶々さんの愛と結婚が真実だと知った時、たとえ物語の結末を知らない者がいたとしても、この物語が悲劇に終わるのがわかる。真実の愛は死によって完結するに決まっているのが芸術の常というもの。蝶々さんは真実の愛を知った者の罰として、あるいは特権として、美しい死を得ることになる。『蝶々夫人』は日本を舞台とするオペラで、日本の死の美学によって終わる。ピンカートンとその妻の要求通り子どもを渡すことにした蝶々さんは、作法に従って自害する。ここで劇的な力をよく知っているプッチーニは、感傷的な音楽を排し、この上ない簡明さで死を描く。『ラ・ボエーム』『トゥーランドット』と続いたヒロインの死の美学は、『蝶々夫人』で頂点に達する。ピンカートンの「蝶々さん!」という呼びかけも空しく、死の儀式が厳粛に遂行され、全曲が終わる。
さあ始まるぞ。婚礼にやってきた客が帰って、蝶々さんとピンカートンの2人、それにお手伝いのスズキだけになって、音楽が夜の場面を始めると、ついわくわくする。愛の二重唱はオペラにはつきもので、ワーグナーなら『トリスタンとイゾルデ』の第2幕、ヴェルディなら『オテロ』の第1幕に、とびきりの時間が用意されている。プッチーニならこの『蝶々夫人』第1幕だ。夕暮れと去っていった客たちの声が調和したところで、二重唱がゆっくりと姿を現わす。実をいえば、ピンカートンは軽い気持ちで同居を始めようとしているので、2人の愛には問題がある。だがプッチーニはかまわず突き進んだ。愛はどんどん燃え上がる。蝶々さんは信じたのだが、ピンカートンだって信じるに至ったとしか思えない。このまま終わらないでと願う人たちの名残りを抑えるように幕がおりて、甘美な二重唱が終わる。
ベラスコの 戯曲 |
原作になったのは20世紀初頭の人気作家デイヴィッド・ベラスコの戯曲だった。ニューヨークで初演されたがプッチーニはこれをロンドンで観て気に入った。 |
長崎 | 舞台は明治初期の長崎になっているが、現代の上演では現代にしたり、ほかの時代に移すこともある。でもたいてい長崎は長崎だ。 |
大失敗 | 『蝶々夫人』はミラノの初演で大失敗を喫している。プッチーニが気に入っていた自作は『蝶々夫人』と『修道女アンジェリカ』で、どちらも初演は成功しなかった。 |
2人の 蝶々さん |
スカラ座で大失敗した『蝶々夫人』だが3カ月後にブレシアで改訂版を上演し、成功する。2つの初演は2人の蝶々さんを生み、これが現在も続く2つのタイプのソプラノにつながった。 |
日本 | 日本が舞台で、日本の音楽を取り入れたオペラだが、作られた時すでにジャポニズムのブームは一段落していた。エキゾティックな東洋の国は、このオペラが初演された日の9日前にロシアと戦争を始めていた。 |
2人の アメリカ男 |
ピンカートンは問題のあるアメリカ人だが、もうひとりのアメリカ男、領事シャープレスは善良な人物として描かれている。 |
奇妙な 日本人たち |
結婚周旋人ゴロー、怒る伯父ボンゾ、金持ちのヤマドリ公爵と、奇妙な人たちが何人も登場する。 |
リンカーン | アメリカの軍艦アブラハム・リンカーン号でピンカートンはやってくる。 |
信仰 | 蝶々さんはキリスト教に改宗し、ボンゾたちから忌避される。つまり自害は禁じられた行為だった。 |
もうひとつの 二重唱 |
第1幕の愛の二重唱は美しいが、第2幕で蝶々さんとスズキが歌う「花の二重唱」も香りのある歌として知られる。 |
登場 | ヒロインの登場はオペラの聴かせどころだが、蝶々さん登場の場面と女声合唱はその中でもとりわけ印象が強い。 |
監修:堀内修