2025/01/08(水)Vol.509
2025/01/08(水) | |
2025年01月08日号 | |
オペラはなにがおもしろい 特集 |
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オペラ |
オペラを楽しみたい方のために、1回1作品をご紹介します。音楽評論家堀内修さんが選ぶ3つの扉から、オペラの世界へお進みください。
妹ドラベッラはもうグリエルモの誘惑に屈してしまった。次はフィオルディリージの番だ。でも自分は恋人に忠実で、ほかの男の誘惑に乗ったりしない、というフィオルディリージの決意は固い。こうなれば恋人のいる戦場に行くほかないと決めた。「もうすぐ誠実な婚約者の手に」と歌い出して始まるフィオルディリージとフェッランドの二重唱こそ、このオペラの白眉というべき場面だ。いや、モーツァルトのオペラの白眉と呼んだっていいくらい。二重唱はフィオルディリージの断固とした決意表明で始まる。忠実な自分は戦地にいる恋人のところに出かける。フェッランドが、それでは悲しみのために私は死んでしまうでしょうと歌いかける。二重唱が進むにつれて変化していく。モーツァルトのオペラでは、1人が歌いかけると歌いかけられたほうは必ず反応するのだけれど、人を動かす歌の力は、この二重唱で驚くべき高みに達する。くり返されるやりとりで、フィオルディリージの気持ちは変わり続ける。聴く者も歌いかけている当のフェッランドも唖然とするくらい敏感で急速な変化だ。変化が短い休止に至った直後、調が変わり、ついにフィオルディリージが優しい愛の歌を歌い出す。大げさな変化ではない。だがこれはモーツァルトにしかできない劇的な変化だ。オペラにおける歌の力はここで極限に達している。オペラ『コジ・ファン・トゥッテ』は、第2幕の終り近くで歌われるこの二重唱で、怖るべき歌の魔法が支配するオペラの本性を露わにする。19世紀人たちが憤慨したとしても、21世紀の聴衆は腹を立てず、微笑みながら受け入れるほかない。
不道徳さで際立っているのが、姉妹の小間使いデスピーナの、第2幕が始まってすぐ、姉妹を元気づける、というかそそのかす「女も15になれば」の歌だ。恋人が戦地に行って悲しんでいる姉妹に、だったら別の相手を見つけりゃいいでしょ、女も15になったらあれやこれやの手管を身につけなくちゃ。軽快に歌われる歌はとても説得力がある。つい、その通り!と言いたくならないだろうか? アンダンテがアレグロに変わるころには、その気になる人がきっと何人も現われる。
新しい相手をまず受け入れるのが妹のドラベッラだ。まだ受け入れない姉の前で、愛の喜びを屈託なく歌う。「恋は盗人」は、恋を得た女の喜びを、この上なく率直に歌った見事な歌だ。けしからん!と怒った昔の人だって、秘かにドラベッラの喜びを賞賛し、こっそり彼女の味方になったに違いない。だって、恋は防ぎようがないんだから。その通り。ドラベッラは正しく、恋する女は魅力にあふれている。
戦場に行く、と告げて出征していったはずのフェッランドとグリエルモは、異国の人に変装して姉妹の前に現われた。
『コジ・ファン・トゥッテ』
(ウィーン国立歌劇場2008年日本公演)
Photo: Kiyonori Hasegawa
第1幕でフィオルディリージが恋人への忠誠心を歌う「風にも嵐にも負けず」のアリアは、実に堂々たるソプラノの大アリアだ。まさかこの人の貞節があやしくなるなんてことはない。つい信じてしまうほどに立派な歌が聴く者を酔わせる。
フィオルディリージが貞節への意志を歌えば、フェッランドは「いとしい人の愛の息吹きは」と恋人への真心を歌う。これはモーツァルトがテノールのために書いたオペラ・アリアの中でもとりわけ美しい歌だ。これだけ甘く、抒情的に恋人への気持ちを歌える青年が心変わりなどするはずがない。聴けば必ず信じるはずだ。
戦場に行くという恋人たちの乗った船が遠ざかっていくのを姉妹とドン・アルフォンソが見送る。航海の無事を願って「風よおだやかに」と小三重唱が歌われる。ごく短い上、出征が嘘っぱちなのを姉妹以外の誰もが知っている。それなのになんと優美で美しいことだろう。昔から特別な歌として愛され、3人が見送っているのは2人の士官というだけでなく、過ぎゆくロココの時代なのだと言われてきた。確かに、オペラ『コジ・ファン・トゥッテ』のあと、貴族社会は終り、新しい市民の時代が始まる。惜別の歌は美しく、微かなかなしみをたたえている。
ダ・ポンテ | 台本を書いたのはロレンツォ・ダ・ポンテで、オペラ史上有数のコンビによる最後の作品となった。 |
三部作 | ダ・ポンテは『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』の台本も書いている。この3作は「ダ・ポンテ三部作」と呼ばれる。 |
駄作か傑作か | 初演から100年以上、このオペラはモーツァルトの失敗作とみなされてきた。傑作、それも最高傑作と評価されるようになるのは20世紀になってから。 |
不道徳 | 失敗作と断じた1人はベートーヴェンで、このオペラは不道徳だと考えた。ワーグナーもひどいオペラだと考えていた。 |
女性蔑視 | 女の美徳の第一は貞節である、と考えられていた男性優位の時代、このオペラは女性蔑視の作品だとされていた。 |
相性 | 「不道徳」も「女性蔑視」も過去のものになった。でも果たして結末で4人は互いにどちらを選んだのか?はわからないまま。声の質だけなら、ソプラノのフィオルディリージとテノールのフェッランドなのだが。 |
最後の オペラ・ブッファ |
モーツァルトはこの後『魔笛』と『皇帝ティートの慈悲』を作るが、イタリア語の喜劇「オペラ・ブッファ」はこれが最後になった。 |
復活の立役者 | このオペラが傑作だと認められるようになるのに貢献したのはR.シュトラウスだった。 |
ナポリ | オペラの舞台はナポリに設定されている。特に意味がないので無視されることも多いが、美しい音楽と風景が合うので、いまも時々『コジ・ファン・トゥッテ』はナポリのオペラになる。 |
重唱 | 重唱が多いのがモーツァルトのオペラの特徴だが、このオペラは『フィガロ』や『ドン・ジョヴァンニ』より多い。 | 戦争 | フェッランドとグリエルモが戦場に行くふりをする時「軍隊生活は楽しいぞ」なんて合唱が歌われるが、実はこのオペラが作られた時代、ウィーンを首都とするハプスブルク帝国はオスマン・トルコと戦争している最中だった。 | 心変わり | 『フィガロの結婚』でも『ドン・ジョヴァンニ』でも歌は人の気持ちを変え、ドラマを動かす。それがオペラ全体のテーマになったのがこのオペラだ。姉も妹も歌で心を変える。『コジ・ファン・トゥッテ』は心変わりのオペラだ。 |
監修:堀内修