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NBS日本舞台芸術振興会
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NEW2026/03/04(水)Vol.537

裏切られた悲運の王妃は錯乱と死を迎えながら、赦す
ドニゼッティ『アンナ・ボレーナ』
2026/03/04(水)
2026年03月04日号
オペラはなにがおもしろい
特集

裏切られた悲運の王妃は錯乱と死を迎えながら、赦す
ドニゼッティ『アンナ・ボレーナ』

オペラを楽しみたい方のために、1回1作品をご紹介します。音楽評論家堀内修さんが選ぶ3つの扉から、オペラの世界へお進みください。

ざっくり、こんな作品

  • ようやく結婚したというのに、イングランド王エンリーコの王妃アンナ・ボレーナへの愛は、早くも冷めている。王が目をつけたのは王妃の女官ジョヴァンナ・セイモーだった。なんとか破綻を避けようとするアンナの努力も空しかった。新しい相手が誰かを知った時にはもう事態は進行していた。王妃を想うペルシーが王妃に言い寄るのを、王妃を崇拝する楽士スメトンが邪魔したまではよかったが、その現場を押さえた王が利用した。捕らえられた王妃アンナ・ボレーナが処刑の時を迎える。
  • ドニゼッティ作曲 フェリーチェ・ロマーニ作詞 全2幕、イタリア語/1830年、ミラノ、カルカノ劇場初演

聴いてびっくり


狂乱の場がそのままヒロイン最後の歌と幕切れの死につながっている。『アンナ・ボレーナ』のクライマックスは第2幕第3場、ロンドン塔の場にある。人々の「どうして涙なしに見ることができるでしょう?」という同情の合唱に迎えられたアンナは、「なんで泣いているの?」と答える。正気を失っているからだ。アンナは今日は婚礼の日だと思っている。集まった群衆だけでなく、客席にいる者でさえ同情してしまう「狂乱の場」だ。太鼓の音がして衛兵が入ってくるところでアンナは正気を取り戻すが、それが幸いというわけではない。これから始まるのは事件の関係者と、何よりアンナ自身の処刑なのだ。完全に正気で、激しい怒りを持って、アンナは「邪悪な2人よ!」と歌い出す。だが歌の魅力は、怒りではなく赦しが歌われるところにある。恐ろしい最期の瞬間に悲運の王妃アンナ・ボレーナが伝えるのは慈悲と寛容だった。ドニゼッティの傑作オペラは死にゆく王妃の赦しで幕をおろす。

Photo: Kiyonori Hasegawa

『アンナ・ボレーナ』
(ウィーン国立歌劇場2012年日本公演より)

見てびっくり


全曲の幕切れも劇的だが、ドラマティックという点では第1幕の幕切れだって負けていない。王が踏み込んだ時の情況といったら、舞台の進行を見守って何が起ったのかわかっている客席の聴衆だって、弁明は無理だと匙を投げたくなるくらい。王妃に言い寄り、拒まれて剣を抜くペルシーがいるわ、なんとか止めようとする王妃の兄がいるわ、隠れていた楽士スメトンが出てきて、そのスメトンは王妃の肖像を持っているわという具合だ。烈火の如く怒る王エンリーコの「皆恐れおののいているな!」で始まるアンサンブルの激しさは、すでにはっきりと暗い結末を告げている。実際この第1幕フィナーレで、登場人物たちの運命は決まった。王妃は処刑されるだろう。「三角関係」と見なされたペルシー卿と楽士スメトンたちだって処刑は免れそうにない。違うのはエンリーコと新しい愛人ジョヴァンナだけで、無事結ばれることになるはず。このフィナーレで響く劇的音楽が悲劇的結末をもたらす。

この歌を聴け


争いばかりではない。むしろ赦しこそこのオペラの核かもしれない。『アンナ・ボレーナ』が初演されてちょうど1年後の1831年12月26日に、同じミラノで世に出るベッリーニのオペラ『ノルマ』のノルマとアダルジーザの二重唱同様、ここでもアンナとジョヴァンナの対決と赦しの二重唱が聴ける。誰かわからない恋敵への怒りを歌うアンナが、ついにいま歌いかけているジョヴァンナこそ当の恋敵だと気づき、赦しを乞うジョヴァンナに心を動かしていく。対決する2つの女声がやがて響きを調和させる時、ベルカント・オペラはその本領を明らかにする。アンナを歌うソプラノだけでなく、ジョヴァンナを歌うソプラノ(メゾ・ソプラノが歌うことが多い)にも図抜けた歌手を得た上演では、全曲のフィナーレ以上に第2幕第1場の二重唱が深い感動をもたらす。

鍵言葉キーワード

ベルカント・
オペラ
このオペラでドニゼッティが加わり、ロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティによる「ベルカント・オペラ」の黄金時代を迎えた。
ヒット作 ミラノでの初演は大成功で、すでに多くのオペラを書いていたドニゼッティの名が一躍メジャーになった。
パスタ 初演でアンナを歌ったのは伝説的名ソプラノ、ジュディッタ・パスタだった。パスタは翌年の『ノルマ』初演ではノルマを歌うことになる。
ルビーニと
ガッリ
初演ではほかにも名歌手が揃っていた。ペルシーを歌ったテノールはジョヴァンニ・バッティスタ・ルビーニで、エンリーコを歌ったバスはフィリッポ・ガッリだった。
復活 19世紀後半から上演されなくなっていたが、20世紀の半ばに復活する。
アンナの
ソプラノ
ミラノではカラスが歌い、ヴィスコンティが演出した上演でよみがえった。その後サザーランド、グルベローヴァ、ネトレプコと、ヒロインを歌うソプラノが現われた。
ロマーニ 台本のフェリーチェ・ロマーニはベッリーニの台本作家としても知られている。ベルカント・オペラの立役者の1人だ。
女王三部作 『マリア・ストゥアルダ』『ロベルト・デヴェリュー』と共にドニゼッティの「女王三部作」に数えられる。
ヘンリー8世 舞台は16世紀のイングランドで、ヘンリー8世の時代の史実をもとにしている。ヘンリー8世は2番目の妻アン・ブーリン(アンナ・ボレーナ)を処刑し、3番目の妻ジェーン・シーモア(ジョヴァンナ・セイモー)と結婚した。
エリザベス
の母
アンナの子がのちに女王エリザベス1世になった。
テノールと
バス
女声だけでなく男声も魅力がある。ペルシーは高音を聴かせるアリアを歌うし、エンリーコは怒りや疑いなどくっきりとした感情表現の歌を歌う。

監修:堀内修