オペラを楽しみたい方のために、1回1作品をご紹介します。音楽評論家堀内修さんが選ぶ3つの扉から、オペラの世界へお進みください。
修道士がアレクサンドリアの美女を信仰に導いた時、修道士は美女の官能的な愛の虜になっていた。
聴いてびっくり『タイース』は稀有なオペラだ。歌によって主人公の心が変わり、ドラマが動くのがオペラの典型なのだが、このオペラは違う。ヒロインの心は間奏曲「タイースの瞑想曲」で変わる。
タイースと同じ高級娼婦、『椿姫』のヴィオレッタは第1幕の終わりで長大なアリアを歌い、華やかな暮らしを捨てて愛に生きる決断をする。一方タイースが信仰の道に入ると決める時は歌わない。修道士が熱心に心を入れ替えるよう勧めたところで幕が降りてしまう。タイースの決断は第1幕の第1場と第2場をつないで演奏される間奏曲でなされる。でもこの間奏曲の、なんと雄弁なことだろう。「花から花へ」で第1幕が華やかに終わったあと、誰でもヴィオレッタが華やかな生活を捨てると決めたのがわかるように、甘美な間奏曲が終わって次の場が始まった時、タイースが豪華な暮らしを捨てる決意を固めたのが誰にもわかっている。
瞑想曲は独奏ヴァイオリンと管弦楽、それに詞のない合唱が加わって演奏される。アンコールピースとして演奏され、広く愛されている。好きだけどオペラ『タイース』は知らない、という人も多いはず。でも一度オペラ『タイース』の上演に接すると、きっと改めて聴き直したくなるはず。「タイースの瞑想曲」はヴァイオリンや管弦楽のきれいな小曲ではない。「タイースの瞑想曲」はアレクサンドリアの美女が瞑想にふけり、ついに心を変える、詞のないオペラ・アリアなのだ。
見てびっくり 「何もかも燃やせ!」聞けば誰だってびっくりする。タイースを除いて。現在ならあぶない放火犯の寝言としか思われないアタナエルの言葉を、改心したタイースは真に受ける。真に受けて実行する。第2幕の幕切れは火事の大スペクタクルになる。燃えるのは豪奢を極めたアレクサンドリア一の遊女の館と財宝なのだから並の火事じゃない。美女と豪邸と財宝が失われるのを阻もうとする群衆が集まって大騒ぎになる。これにタイースとアタナエルの逃亡を助けようと、友人の富豪が金貨をばらまいたものだから大変だ。火事くらいではすまない。トロイア炎上みたいな大スペクタクルになる。
ドラマとしてのこのオペラのクライマックスは全曲の幕切れにある。官能の喜びを極めた美女は修道士の導きで信仰を得て、清らかな天国へと旅立ち、導いた修道士は官能の喜びに目覚め、天国などより人間の愛だと、死にゆく美女にとりすがる。
この歌を聴け とんでもない町だ。この町の出身でもある修道士アタナエルがアレクサンドリアに到着してすぐ歌うアリアで、聴く者はこの町のいかがわしさ、淫らさを知る。同時に凄い魅力も。
鏡に映った自分の姿に語りかけるタイースのアリアが、このオペラ一聴きごたえのある歌だろう。「どうか自分を美しいと言って!」と語りかけるのは、自信たっぷりの美女ではなく、不安でいっぱいの女だ。『ばらの騎士』の元帥夫人のように、タイースは終わる時がくるのを予感している。それは避けようがない。気を取り直してやっぱり遊女のままでいよう、と口にするものの、『椿姫』のヴィオレッタのように口とは裏腹の決断に近づいている。このアリアは後にくる瞑想曲につながっている。
もしもタイースとアタナエルのあいだに恋愛感情があったとするなら、それは第3幕、砂漠のオアシスの場で歌われる二重唱にある。汲んだ水を持ってきたアタナエルにルイーズが感謝して歌い出す。めざす尼僧院は近い。一瞬だけ成立したかもしれない恋愛が、甘美な二重唱から聴きとれる。
| マスネ | フランス・ロマン派のヒット・メイカー、マスネが『ウェルテル』の次に完成した。 |
| 原作 | 詩人・評論家のアナトール・フランス(1844〜1924)が1890年に発表した小説「舞姫タイース」を原作としている。 |
| 主役 | 原作ではタイースを改心させながら自分が煩悩に苦しむアタナエルの苦悩が主題だが、オペラでは改心するタイースが主役になっている。 |
| アレクサン ドリア |
ローマ帝国時代の後期、4世紀ごろのアレクサンドリアが舞台となっている。 |
| 異教と キリスト教 |
2009年公開の映画「アレクサンドリア」(原題Agora)も同時期だが当時アレクサンドリアはキリスト教化が進みながら、異教的なところも残っていた......らしい。 |
| 異国趣味 | オペラが初演された19世紀末は遠いアジアや古代の中東が流行した。このオペラも『サムソンとデリラ』や『サロメ』同様エキゾティシズムの色濃い作品だ。 |
| エロス像 | アタナエルに壊されるまでタイースが大切にしていたのは、異教の象徴というべきエロス(=キューピッド)像だった。 |
| 踊り | エキゾティシズムといえば踊りで、『タイース』にはバレエの場面があるだけでなく、いくつも踊りが出てくる。 |
| 親切な 友人 |
テノールが歌うアタナエルの友人ニシアスは、修道士となった旧友を歓待するだけでなく、危機には金貨をばらまいて逃亡を助ける親切な友だ。 |
| 美女 | アレクサンドリアの町をまるごと堕落させるくらい、タイースは魅力的だった。当然美女でもある。歌いたいソプラノは多い。 |
| 無声映画 | 人気の『タイース』は1917年に『ペレアスとメリザント』初演のメリザンドを歌った歌手メアリー・ガデンが主演して映画化されている。無声映画だった。 |
監修:堀内修