オペラを楽しみたい方のために、1回1作品をご紹介します。音楽評論家堀内修さんが選ぶ3つの扉から、オペラの世界へお進みください。
侵略国家の王ナブッコが改心して愛する娘と囚われた人々を救う。
聴いてびっくり世界で最もよく知られた合唱曲が「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」ではないだろうか? イタリア統一運動に大きな働きをしたとされるオペラ『ナブッコ』の第3幕で、バビロンの捕囚となったユダヤ人たちが故郷を想って歌う歌だ。イタリアの第2の国歌というと勇ましい歌なのかと思いきや、穏やかで優しい情感にあふれている。祖国を失ったユダヤ人の悲しみが、統一前のイタリアの人々の心情と共鳴したのだった。かきたてられた想いが『ナブッコ』と作者ヴェルディの名を高めたのはまちがいないが、事情を知らないで聴いてもきっと心を動かされる。イタリア統一を導いたというのは事実というより神話なのだろう。だが見事な神話というほかない。共鳴する声の美が、そのまま「私たちの国は戦場でなく歌劇場で生まれた」というメッセージになっているのだから。決してアンコールを許さない指揮者ムーティが、スカラ座でこの歌だけはアンコールで繰り返した。1988年スカラ座日本公演の『ナブッコ』での「行け、わが思いよ......」は伝説となっている。ユーフラテス川畔での微かな悲しみと願望のそよぎは、やがて劇場を超えて広がっていく。
見てびっくりオペラにおける最もおそろしい女性の最有力候補はバビロンの王女アビガイッレだろう。女声の威力を最大限に発揮する点で、同じヴェルディの『マクベス』に登場するマクベス夫人に勝るとも劣らない。『ナブッコ』の第2幕は聴く者がアビガイッレの歌におののき、威圧され、同時に魅了される幕だ。強力な声と表現力のソプラノが歌うほかない役なので、視覚的にも強力な上演が多い。 バビロニアの王宮で、アビガイッレが困った記録を見つけたところから長大なモノローグが始まる。自分こそナブッコの王座を継ぐ正統な王女だと信じていたのに、実は奴隷の娘で、妹フェネーナのほうが後継者だったのだ。アビガイッレの驚き、とまどい、そして怒りは並じゃない。歌はその動揺を変化にとんだ表現で余すところなく伝える。だがおそるべき女の本領はさらに拡大していく。絶望から希望へ、というのはいいのだが、アビガイッレは希望というより野心の成就へと向かう。ナブッコから実権を奪い、自分が強大なバビロニアを支配し、ユダヤの異教徒たちを征伐してやる! 聴いて仰天し、思わず支持したくならないだろうか?
この歌を聴け オペラ『ナブッコ』のドラマの中心は、たとえ華やかさや強烈さで引けをとるとしても、第4幕でナブッコが歌うアリア「ユダの神よ」にある。第2幕で自分は神だと言い放って雷に打たれ、傲慢な王から哀れな病人になっていたナブッコが、アビガイッレの命令で愛する娘フェネーナが処刑されると知って驚き、正気を取り戻すと、心を入れ替えてユダヤ教の神に祈る。再び権力を手に入れてフェネーナを救い、ユダヤの人々を解放することで、オペラは急転直下、ハッピーエンドに向かう。真剣な祈りで正気と権力を取り戻した王が元気いっぱいで敵を倒しに行く歌がドラマを高揚させる。もともと捕虜に寛容だった王はこの歌によってタイトルロールにふさわしい存在になる。
ベルの祭司長もヘブライの祭司長もバスの役だが、悪と善にはっきり分かれている。聴き応えがあるのは勝者となる善の歌だ。第1幕の、危機にあるイェルサレムの神殿で、ヘブライの祭司長ザッカリアが集まった人々に勝利を説く。クーデターをたくらむ信仰より危機にくじけない信仰が立派なのは当然か。
| ナブッコ | 新バビロニア王国の王ネブカドネザル2世のこと。 |
| 旧約聖書 | ネブカドネザル王は紀元前7〜6世紀に生きた。旧約聖書のエレミヤ書やダニエル書に登場する。 |
| 空中庭園 | 王が作ったとされるのがバビロンの空中庭園で、第3幕第1場と第4幕第2場はこの庭園が舞台となっている。 |
| バビロン 捕囚 |
ユダヤ人のバビロン強制移住は紀元前6世紀の出来事で、旧約聖書に出てくる重要な事件だ。 |
| 出世作 | ヴェルディの第3作にして出世作が『ナブッコ』だった。 |
| 伝説 | 貧しく、さっぱり芽が出ない上、妻も子も失って人生のどん底だったヴェルディに、スカラ座の支配人が依頼し、書き上げるまでのいきさつは伝説となっている。伝記映画でもくりかえし描かれた。 |
| 大成功 | 1842年3月の初演は大成功を収めた、ヴェルディはこの1作で一気に人気オペラ作家となり、イタリア・オペラの巨人への道を歩み出した。 |
| イタリア統一 運動の英雄 |
失われた故郷を想う「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」はそのころ高まっていたイタリア統一運動=リソルジメントを強く刺激し、『ナブッコ』は空前の成功作となり、作者ヴェルディをイタリア統一運動の英雄にしていった。 |
| 4部のオペラ | 台本では幕(=atto)ではなく部(parte)となっていて、それぞれ「イェルサレム」「背信」「預言」「偶像破壊」と副題がつけられている。今日では幕と記されることも多い。 |
監修:堀内修