新『起承転々』〜漂流篇VOL.6 バレエ立国

バレエ立国

 バレエファンの間でENBと呼ばれているイングリッシュ・ナショナル・バレエの日本公演を無事に終えたばかりだ。かつての英国ロイヤル・バレエ団のプリンシパル・ダンサー、タマラ・ロホが芸術監督になって急激に存在感を増しているこの団体は、いわば世界のバレエ界の台風の目といった存在だ。所属ダンサーの国籍は18か国、ヒスパニック系や東洋系が多く、リード・プリンシパルの高橋絵里奈や加瀬栞をはじめ日本人のダンサーも多い。ENBは英国の中ではロイヤルバレエ団、バーミンガム・ロイヤル・バレエ団に次いで3番目に位置づけられていて、ロンドン・コロシアムを拠点に活動しているが、ツアーが多いのが特徴だ。団員は75名で、年間約150回公演しているという。
 NBSは東京バレエ団を運営しているが、ENBと比較すると彼我の差は歴然だ。東京バレエ団の例を挙げてみよう。団員の数は75名で同じ。公演回数はその年によって多少バラつきはあるが平均すると約50公演。決定的に違うのは国からの助成金だ。英国と日本では仕組みが同じではないものの、ENBは2016年度アーツカウンシルイングランドから年間6,214,000ポンド(約9億円)、作品の新制作に対し324,000ポンド(約4,700万円)の助成金を受けている。一方、“日本版アーツカウンシル”といわれる日本芸術文化振興会から日本のバレエ団体の年間公演事業に対し助成される上限は1億円と決められていて、今年、東京バレエ団は上限いっぱいを予定している。お金のことをいっても、読者の皆さんにはピンとこないだろう。かつて古典バレエの全幕物を新制作するために準備を重ねていたが、振付料や舞台装置、衣裳などの製作費ほか総経費が3億円にも達することがわかり、やむなく断念したことがある。上演作品にもよるが、それほど舞台芸術は金食い虫だということをご理解いただきたい。
 今回ENBのダンサーたちは東京バレエ団のスタジオを使ってリハーサルをしていたが、スタジオが5つあることや施設の充実ぶりに驚いていた。創立者の故佐々木忠次が今後どうしても必要になるからと、無謀な借金を重ねて強引につくったおかげだ。ENBが使っているスタジオは3つ、それも東京バレエ団より小さいらしいのだ。東京バレエ団のレパートリーの多彩さと、海外の有名オペラハウスに軒並み出演していることにもびっくりしていた。東京バレエ団は53年前に創立されて以来、世界の主要なバレエ団と比較しても見劣りしないくらいの実績を残していると思うが、それでも団員たちの待遇面ではENBにかなわない。国内の団体の中ではトップクラスの報酬を東京バレエ団の団員には払っていると思っているのだが、どうしてもENB並みにならないのは、前述のとおり国からの助成の金額に決定的に差があるからだ。
 近年の日本人ダンサーの活躍ぶりは、マスコミの報道によってご存じの方も多いだろう。 国際バレエコンクールで日本人が入賞するのは、いまや当たり前といっていいくらいだし、世界中の主要なバレエ団で日本人ダンサーがいないほうが珍しいくらいだ。日本人の優秀な人材はたくさんいるが、才能がどんどん海外に流出している。むろん、優秀なダンサーが海外で活動したいと望むことは理解できるが、根底にあるのは日本ではバレエ・ダンサーが職業として経済的に成立しにくいからだ。優秀な日本人ダンサーがどんどん育っているのだから、若い才能が国内に留まる環境をつくり、海外の一流のバレエ団に比肩するバレエ団を日本につくることが本筋だと思うのだが、それは私だけの妄想だろうか。
 日本は掛け声だけは文化立国をめざしているようだが、バレエやオペラ、オーケストラなど、グローバルな芸術に対しては世界の文化大国と比べ文化予算は相当貧弱だ。国民の健康増進のためにと税金を使ってスポーツを振興していた時代はとうに終わり、今はいかにオリンピックでメダルを獲るかという時代だ。同様に舞台芸術においても芸術振興の時代は終わり、世界の頂点を目指さなければならない時代に移っている。わが国の限られた文化予算の使われ方も自ずと変わらなければならないだろう。
 世界のバレエ団が“多国籍軍”化しているなか、世界中に散らばっている優秀な日本人ダンサーを集め、優秀な指導者を確保できれば、自国のダンサー主体で組織されているパリ・オペラ座バレエ団やボリショイ・バレエにも対抗できる日本が世界に誇れるバレエ団をつくれるのではないか。東京バレエ団は海外公演のたびに、その一糸乱れぬアンサンブルから「世界一のコール・ド・バレエ」との評価を得ているが、けっして大風呂敷を広げるわけではなく、もし東京バレエ団にENBの半分の5億円でも助成金がつけば、たちまち「オリンピックのメダル候補」に入れるのではないかと、本気で考えている。
 これから本格化する東京五輪の文化プログラムは、我々にとって舞台芸術を活性化させる千載一遇のチャンスだと思っている。いまが変革の時だ。このたび文科大臣に就任された林芳正氏は舞台芸術にもご理解があるようなので、文化大国フランスのかつての文化大臣、アンドレ・マルローやジャック・ラングにならい、文化行政に大ナタを振るってもらいたいと大いに期待している。