新『起承転々』〜漂流篇VOL.10

迫り来る危険

 最初にお断りしておくが、私は自他共に認めるアナログ人間である。スマートフォンも持っていない。いまやアマゾンの奥地の人も、アフリカのマサイ族も、テントのような住居で暮らしながらもスマートフォンで写真や動画を撮っていると聞いて、愕然とした。私も初めはITの進化に何とかついていこうとしていたが、忙しさに紛れているうちにどんどん離され、いまでは周回遅れを自覚している。そのうち、ついていくことすら諦めることになりそうだ。そうは思っていても、IT革命の大波に飲み込まれて、われわれ舞台芸術に携わる者にとってもIT化は避けられない。
 公演のチケットもインターネットで購入するのがあたりまえになっているし、公演の宣伝もいかにSNSを使って情報を拡散するかに重きが置かれるようになってきている。私がこの仕事に就いたころには、まだプレイガイド全盛だった。プレイガイドに足を運んで、その場で席を選んでチケットを買っていた。宣伝にしたって、新聞広告が一番有効だった時代だ。いまは24時間いつでもインターネットで座席を選んで注文することができ、コンビニでチケットを引き取るというのが主流だ。宣伝はどんどん複雑になっていて、従来のダイレクトメールや新聞・雑誌広告などのほか、ホームページはもちろん、SNSを使って情報を発信し、拡散し、浸透させなければならない。しかも「インスタ映え」するような写真や、効果的に編集された動画が求められるようになっている。そして、フェイスブックの「いいね!」やツイッターの「フォロワー」の数に一喜一憂するのだ。当然、いままで以上にお金も労力もかかるが、かといって、いまや時代の趨勢に抗うこともできない。日本は欧米にかなり遅れをとっているが、デジタル・マーケティングに本腰を入れて取り組まなければならないと思っている。
 12月4日の朝日新聞朝刊に「映画批評 プロはつらいよ」の大見出し、「投稿サイト台頭 興行を左右」「減る専門誌 批判より宣伝」の小見出しがついた記事が載っていた。これらの見出しで簡単に想像がつくと思うが、インターネットのレビューサイトが進化・普及したことから、映画の興行を左右するほど存在感を増している。その一方で、映画評論家の執筆の場が減り、率直な批評がしにくくなったという。作品の関係者が大量に好意的な投稿をして順位を上げる「やらせ投稿」や、肯定的な投稿に関係者が「いいね!」のボタンを押すことも珍しくないらしい。現実と乖離した虚構の信用が拡散する危険が潜んでいる。これはそのまま、われわれ舞台芸術の世界にもあてはまることだ。インターネットの普及は画期的に生活を便利にしたが、功罪の功ばかりではない。インターネットに国境はなく世界中の情報を簡単に手に入れることができる。YouTubeで歴史的な名舞台から、素人が演じている舞台まで、なんでも簡単に観ることができる。生の舞台を観ていなくてもYouTubeの画像だけで、オペラやバレエがわかった気になっている人が増えているらしいのだ。実際の公演はアーティストと観客のコミュニケーションによって成立するものだからまったく別物だが、バーチャルな世界がリアルな世界をどんどん侵食していくように思えて恐ろしくなる。悪知恵を働かせて、インターネットを悪用する輩もいる。インターネットを使ったチケットの転売もその一つだろう。一昔前はオペラやバレエ、クラシック・コンサートの人気公演でも劇場の入口前でダフ屋の姿を見かけたが、それもいまは絶滅状態だ。インターネットを駆使した知能犯でなければ生き残れないのだろうが、仕掛けがどんどん巧妙になっているようだ。2020年には東京五輪があるのだから、法整備も含めインターネットを使ったダフ屋行為の取締りが強化されることだろう。
 アナログからデジタルへの転換、リアルからバーチャルへの移行が急速に進んでいることを日々肌で感じる。インターネットを使うことは、つねに個人情報流出の危険がつきまとう。どうやら「ビッグデータ」をいかに活用するかが、これからのビジネスの盛衰にかかわってくるらしい。そうなると、集まった情報をもとにAI(人口知能)などを使ってネット上のデータをすべて分析したら、個人が丸裸にされてしまうのではないかという危惧を抱いてしまうのだ。
 自己弁護かもしれないが、私が舞台芸術の仕事に携わっているのとアナログ人間であり続けていることと関係があるのかもしれないと思っている。テクノロジーの急激な進化に反抗して、どこかで人間らしさにこだわっているように思う。鈍感な私であっても、本能的に迫り来る危険をどこかで察知しているような気がする。AI時代は感性と思考力を磨く必要があるというが、人間にしかできないことを追求していくことこそ、これからの時代を生き抜く道なのかもしれない。