新『起承転々』〜漂流篇VOL.36 トスカの接吻

トスカの接吻

 12月半ばに街中がクリスマス・イルミネーションで華やぐミラノを訪れた。9月にスカラ座の引越し公演でもってくる新制作の『トスカ』を観るためだ。リヴェルモア演出の舞台を観るうちに血の気が引くのを感じてしまった。『トスカ』の物語はまるでサスペンス・ドラマだが、それが映画のようにスピーディーに展開する。セリが上下するわ、回り舞台を使うわ、最新技術のLEDウォールを使うわで、これを舞台機構がまったく違う東京文化会館で上演するのは無理だと、打ちのめされた気分になった。さっそくスカラ座の技術監督に日本公演はどうするんだと迫ると、日本にもっていくことを前提に演出家と話しながら進めてきたから大丈夫だとの自信に満ちた答えが返ってきた。大道具のチーフにも聞いたが、東京文化会館の舞台はよく知っているけど、日本公演のことはちゃんと考えて造っていると言われ、少しホッとした。そういえば1987年にベルリン・ドイツ・オペラがゲッツ・フリードリヒの演出で、〈ニーベルングの指環〉を日本初演したとき、フリードリヒが日本の劇場に合わせて演出に手を加えた。「トンネル・リング」との異名をとり、本拠地で上演するときは奥舞台から45メートル続くトンネルのような舞台だったが、フリードリヒは舞台の奥行の浅い日本の舞台に合わせてトンネルを二股に分け、出演者たちに演技をつけ直した。そのことを思い返すと、今回のスカラ座の『トスカ』においても、最初から演出家が日本公演のことを考えてくれているなら私が心配するまでもないと、気持ちがいくぶん楽になった。
 『トスカ』の公演そのものは本当に素晴らしいものだった。スカラ座の誰に聞いても、近年の中では最高のプロダクションだと口を揃えるし、批評もふつうは賛否両論あるのだが、この『トスカ』に関しては否定的な評は一つもないと、みな誇らしげに言う。私の心配はスカラ座と東京文化会館との舞台機構の違いだけではなく、この舞台装置の量が半端ではないことだ。コンテナで30本、11トントラックで45台分になりそうなのだ。舞台装置を東京文化会館に搬入し、仕込み、リハーサルをやって本番を迎えるまで、深夜作業を続けても10日間はかかる。なぜか朝仕込んで夜本番ができる吊り物だけの“ぺらぺらオペラ”がまかり通っているが、すきま風が吹き抜けるような舞台は、引っ越し公演とは似て非なるものだ。今回、イタリアで何人もの劇場関係者と話をする機会があったが、日本で公演しているイタリアの“ぺらぺらオペラ”のことをよく知っていて、安価にできる仕組みを解説してくれた。「オペラは総合芸術であり、音楽はもちろん、舞台装置や衣裳や、照明も高いレヴェルの技術が要求されるが、あれは自分たちのやっているものとは別物で、我々の仕事の足を引っ張るだけだ」と、吐き捨てるように言っていた。
 今回、スカラ座が『トスカ』とともにもってくるのが、リリアーナ・カヴァーニ演出の『椿姫』で、これもおそらくスカラ座の演目の中でも、もっとも大掛かりなプロダクションではないかと思う。この『椿姫』は1995年にNHKホールで6回公演しているが、あっという間に売り切れた。おそらくスカラ座日本公演史上、一番人気のあった公演だったように思う。
 年に一度のオペラの引越し公演は、毎年乗り越えなければならない試練のようなもので、そのつど塗炭の苦しみを味わっている。今回は『トスカ』『椿姫』の両方のプロダクションが巨大で、過去の日本公演以上に舞台設営に関わるコストがかかるうえ、オリンピック・パラリンピックの影響によるホテル代の高騰や消費税率のアップなどで制作費が跳ね上がり、逆にこれまで9公演だった公演回数が、今回はさまざまな制約から8公演になったので入場料収入も減ってしまう。まったく本意ではないのだが、今回のスカラ座日本公演の入場料の最高ランクは、オペラの引越し公演史上最高の6万9千円にせざるを得なかった。内実をいえば、採算点を考えると最高席を7万4千円に設定したいところだが、さすがに一気に7万円を超えられないと悩み抜いた末、6万9千円に止めたというのが実情だ。今後もオペラの引越し公演を存続させるために、ぜひともこの入場料設定に関し、オペラ好きの皆さまのご理解をお願いしたい。実際、現地ミラノでの『トスカ』の最高席は3万円を超えているし、12月7日のオープニング・ナイトは30万円超えだ。感動はお金に換算できない。“ぺらぺらオペラ”を2度観るなら、1度でも本物のスカラ座の舞台を体験してほしいと思う。
 『トスカ』の第2幕でトスカは恋人のカヴァラドッシの命を救うために、警視総監スカルピアの求めに応じ身体を許そうとするが、そのとき傍らにあったナイフに気づき、そのナイフでスカルピアの胸を刺す。その一突きを「トスカの接吻」と呼ぶ。接吻という言葉は甘美に響くが、今回のスカラ座の豪華で強力な『トスカ』が、多くの人々の心を虜にするとともに、一閃して難問山積のオペラ引越し公演の現状を打開する一突きになってくれることを願っている。