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2023/09/19 2023:09:19:15:00:00

【レポート】ローマ歌劇場2023年日本公演「トスカ」初日レポート
ローマ歌劇場2023年日本公演のもう一つの演目「トスカ」が開幕しました。主演にソニア・ヨンチェヴァ、ヴィットリオ・グリゴーロ、ロマン・ブルデンコというスター・ソリストたちを迎え、音楽監督のミケーレ・マリオッティの指揮のもと歌劇場のオーケストラ、合唱、児童合唱が一体となって息つく間もないほどの緊迫感溢れるドラマを紡いだ舞台に、最後は会場が揺れんばかりの怒涛のような喝采。その様子を「椿姫」に続き、ライターの小田島久恵さんにレポートしていただきました。

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ローマ歌劇場『トスカ』の初日公演が9月17日、神奈川県民ホールで行われた。フランコ・ゼッフィレッリ版の壮麗なローマの装置が舞台で再現されるのは、この歌劇場にとっても15年ぶり。第1幕の聖アンドレア・デッラ・ヴァッレ教会の巨大なバロック様式の聖母の彫像が美しい。燭台に輝くたくさんの蝋燭の灯りも煌めく星のようで、美術・装置の全てが「目の悦び=オピュレンス」の演出家であるゼッフィレッリの美学を象徴している。教会の礼拝堂のセットは、フィレンツェのカトリック修道院で育った彼の原風景でもあった。

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スカルピアの恐怖和音、脱獄者アンジェロッティ(ルチアーノ・レオーニ)が暗躍する不吉なモティーフから、呑気な堂守(ドメニコ・フライアンニ)のユーモラスな歌が続き、「絵具をくれ」と画家カヴァラドッシ(ヴィットリオ・グリゴーロ)が『妙なる調和』を歌い出すと、ホールに花火のような爆発が起こった。ドラマティックに美声をうねらせ、主役テノールの「華」をこれでもかと解き放ってくる。
グリゴーロはいつもの3倍以上の(?)熱気を込めて最初の見せ場を演じたので、拍手もなかなか鳴り止まない。限界までフェルマータを効かせた「濃い」アリアで、古臭さはなく、却って現代的に感じられた。

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表題役のソニア・ヨンチェヴァはエンパイアスタイルの水色の歌姫のコスチュームを麗しく着こなし、瞬間湯沸かし器のように気性の激しい女性を演じた。グリゴーロとヨンチェヴァの二重唱は第1幕からパワー全開で、音程もテンポも神業かと思わるほどぴったり合っている。ヨンチェヴァの声には清冽な母性と神秘性があり、女神のようだが人間臭い表現もふんだんにする。この主役二人の間には共通の大きな目的があったはずだ。「この舞台で必ず成功しなければならない」ということ。人気歌手には底知れぬ孤独があり、守らなければならない名誉や信頼がある。究極の目的は聴衆へ愛を伝えることだ。トスカとカヴァラドッシのカップルにつねに危険がまとわりついていて、歌手の二人も同様なのだと痛感した。過去にも『トスカ』で共演してきただけあって固い信頼感で結ばれていたが、ローマ歌劇場では殊更に堅い結束感でオーケストラに対して歌手の誇りを見せて(聴かせて)いた。

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音楽監督のミケーレ・マリオッティは2回目の『椿姫』の翌日に『トスカ』を振ったが、プッチーニのオペラに関しては、物語の焦点を決めて、そのポイントに向かってジワジワと緊張感を高めていく計画を立てていたようだ。記者会見で語っていた「トスカが『殺人を行う』ということを、今日的な状況の中でいかに考えるか...」という問題である。ポイントは「殺人」で、それは実に徹底していた。

スカルピアのロマン・ブルデンコは上品な姿で、字幕のニュアンスも悪役にしては礼儀正しかったが、スコアに書かれている役の嫌らしさや残虐性は、オケが蛇のように表した。壮麗で邪悪な『テ・デウム』(ゼッフィレッリ版は圧巻)から、悪の毒が沁み出していく。第2幕でトスカは何度でも拒絶するが、スカルピアは粘りつくように執拗に迫って来る。恐怖を煽っておきながら、拷問の縄を緩めるように「救い」もチラチラちらつかせる。悪趣味なフェティッシュにトスカは窒息寸前になり、「とうとう」あの場面がやってくるのだ。

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その直前の重要なアリア『歌に生き、愛に生き』ではヨンチェヴァの歌い出しが素晴らしく、指揮者とオケが1幕から敷いてきた丹念なレールの上で、苦渋に満ちた悲劇の花を一気に咲かせた。第2幕のファルネーゼ宮の場面ではありとあらゆる残酷な音楽を聴くことになるが、冒頭でトスカと合唱が歌う祝賀演奏も不気味の極みを尽くしていた。合唱は霊力に溢れ、緻密で素晴らしい。

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マリオッティは本気で「オペラを化石のようなものにしたくない」と考えているのだ。トスカが窮地に追い込まれて行った殺人を、現代のさまざまな理不尽と結びつけて考えさせる。理屈ではなく、身体が、魂が、オペラによって刺激され思考を始めるように、そんなふうにドラマを作っている。リアルな心理効果を与える聴覚の冒険が金・管・打のパートの隅々まで行われていた。

第3幕では第1幕でも大活躍だったNHK児童合唱団の高瀬久遠さんが牧童を素晴らしく歌い、カーテンコールではグリゴーロからハイタッチで讃えられていた。第3幕では、続けて歌われるところで大きな拍手が湧き、中断するという珍しい事件も起こった。これから逃避行する二人が愛を固め、ユニゾンを歌い出す瞬間に喝采が起こったのだが、そうした観客のリアクションさえ自然なことに思えた。

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ローマ歌劇場で『トスカ』が初演されたのは1900年1月。ローマの名所を舞台にしたご当地オペラは、その時代のスーパーマエストロとスター演出家、スター歌手たちによって歌い継がれて来た。最もイタリアオペラ的なゼッフィレッリ版が15年の時を経て復活したのは嬉しい奇跡で、ここにはオペラの真の本質が凝縮している。ゼッフィレッリはコンサバとは正反対の人で、この演出から見えてくるのもオペラの未来的な可能性なのだ。

サンタンジェロ城からのトスカの落下の後、余韻の静寂を待たず嵐のような喝采が起こった。ローマ歌劇場の『トスカ』はエンターテインメントを超える、超越的な愉悦と覚醒の世界だった。この種の感動は、オペラでしか起こらないし、他のジャンルでは起こらない。「オペラが未来永劫生き続ける理由」を、伝統あるローマ歌劇場が教えてくれたことは、大きな示唆に富んでいる。観た人の人生を変えるオペラだった。

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取材・文 小田島久恵 フリーライター
photo: Kiyonori Hasegawa