ファン待望の〈旬の名歌手シリーズ〉、3つのコンサートについて各回の期待と魅力を音楽評論家の堀内修さんにご紹介いただく3回目はリセット・オロペサとルカ・サルシ。世界中で引っ張りだこのスター・ソプラノとバリトン。この二人をいま聴ける理由が!
実現していれば65年ぶりの出来事だったと聞いて驚いた。実現しなかったのは2020年12月の、ミラノ・スカラ座のシーズン・オープニングで上演されるはずだったドニゼッティ『ランメルモールのルチア』だ。コロナで中止されてしまったオペラ界の重要な催しの、何が65年ぶりなのかというと、アメリカ人のソプラノがヒロインを歌う上演だという。ん? アメリカ人のソプラノって誰だ?
すぐに気づく。マリア・カラスだ。65年前のスカラ座シーズン・オープニングで上演されたのは、カラスがヴィオレッタを歌い、ルキノ・ヴィスコンティが演出し、カルロ・マリア・ジュリーニが指揮した『椿姫』だ。スカラ座を熱狂させた公演は伝説となり、ムーティが苦労して挑戦するまで長い間イタリア・オペラの殿堂で『椿姫』が上演できないという事態を招く。では実現されなかった12月7日の『ルチア』でルチアを歌う予定だったアメリカ人のソプラノって誰だ?
リセット・オロペサは新しい名前じゃない。メトロポリタン・オペラで『ファルスタッフ』のナンネッタを歌っている映像があるが、これを聴いて目をつけた(耳をつけた?)人がきっといる。オロペサは早くから有望視され、多くの役を歌っていた。だが有望なソプラノはある時一線を越えて、世界の歌劇場で引っ張りだこのスターになってしまった。容貌まで洗練されたから、人気はさらに高まる。マノン(マスネの)だってルチアだって、声も姿もぴったりになってしまったのだ。人気爆発が起こった途端にコロナ大流行になったのは不運だったかもしれないが、おかげでスターになろうとしているソプラノを、映像でなら目撃できることになった。
無観客で劇場全体を使って行われたローマ歌劇場の『椿姫』を見れば、こまやかな演技と精緻な声の技とで、生き生きしたヴィオレッタになるオロペサに感嘆するだろう。コロラトゥーラ・ソプラノとして評判になり、ルチアやジルダとしてウィーン国立歌劇場をはじめとする世界の歌劇場で成功を重ねたソプラノは、さらに先へと進もうとしている。
でもこのままでは勢いよく上昇しているソプラノの声と姿に、直接触れられないかもしれない。コロナのおかげで、昔のオペラ・ファンがそうだったように、ようやくスター級の歌手をこの目で見、この耳で聴く機会がやってきた時には、元スターになっていたという事態になりかねない。オロペサが元スターになるのはだいぶ先だろうが、できることなら頂点に達する直前から聴きたい。なんとかならないだろうか? なりそうだ。
『リゴレット』の今を時めくジルダがオロペサなら、今を時めくリゴレットはルカ・サルシだろう。『椿姫』の今を時めくヴィオレッタがオロペサなら、今を時めくジェルモンはルカ・サルシだ。
でも、ルカ・サルシって、けっこう前から歌っていて、堅実なバリトンで安心できるバリトンではあるけれど、時めくっていうのはどうなんだろう?
ここでイタリア・オペラの過去の人気バリトンたちを思い出す。いつもたったひとりだった。まるで選挙で選び出しているように、ひとりのバリトンが選出される。ピエロ・カプチルリが君臨していたころ、スカラ座だけでなく、イタリアだけでなく世界の一流歌劇場で行われる重要な公演で歌うバリトンはカプチルリに決まっていた。そのカプチルリが去った後はレナート・ブルゾンだった。その後はご存知レオ・ヌッチだ。ヌッチは長い間たったひとりのバリトンであり続けた。ソプラノが時めいている期間は短いが、バリトンは長い。そしていつの時代も時めいているソプラノは複数いるが、バリトンはひとりだ。イタリアのオペラ界にはそういう決まりがあるのではないかと思えてくる。
ではヌッチの後の時めくバリトンは誰か? しばらくの間、スカラ座も含め、世界の主要歌劇場の大変な公演に登場するバリトンはリュドヴィク・テジエだった。それがいまも続いているが、テジエはフランスのバリトンで、レパートリーも少し違う。でもこの人なのかな? と思っていた矢先にサルシの活躍が目立つようになった。そうか、ようやく決まったかと、胸をなでおろした人もいたはずだ。誰かが決めたわけじゃなく、選挙で選ばれたわけでもないけれど、決まったのはどうもまちがいなさそうだ。
スカラ座もウィーン国立歌劇場も『マクベス』を上演するならタイトル・ロールとして舞台に登場するべきはサルシになった。穏やかなイメージもあって、本当に向いているのだろうか? と半信半疑だったのだけれど、『リゴレット』のリゴレットを映像で見る限り、選ばれたバリトンとして納得できる。
2014年にローマ歌劇場日本公演の『ナブッコ』でナブッコを歌ったルカ・サルシはけっこう立派だったと思うのだが、いまとなってはずっと昔に思える。あの時はまだ選ばれたたったひとりのバリトンではなかったのだ。いま、マクベスやリゴレット、『仮面舞踏会』のレナートとして苦悩を歌い、世界の歌劇場を制覇しつつあるバリトンは、その後のサルシだ。イタリア・オペラの、今を時めくバリトンを、改めて聴いてみたい。
堀内 修(音楽評論家)
リセット・オロペサ Lisette Oropesa (ソプラノ)
ルイジアナ州ニューオリンズ生まれ。フルートを学んだのち声楽に転向し、メトロポリタン・オペラによるナショナル・カウンシル・オーディションの優勝を機に同歌劇場の若手芸術家育成プログラムに参加、22歳にして『フィガロの結婚』スザンナでデビューを飾る。以後はメトロポリタン・オペラをはじめ、ミラノ・スカラ座、ウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場、パリ・オペラ座など世界の主要な歌劇場に次々と主演を重ねる。2021/2022シーズンは英国ロイヤル・オペラのシーズン開幕作品『リゴレット』でジルダを演じ高評を博した。レパートリーは幅広く、モーツァルト、ベッリーニ、ドニゼッティなどリリック・コロラトゥーラの諸役で圧倒的な輝きを放つ。
ルカ・サルシ Luca Salsi (バリトン)
イタリアのサン・セコンド・パルメンセ生まれ。アッリゴ・ボーイト音楽院で学んだ。メトロポリタン・オペラ、ミラノ・スカラ座、英国ロイヤル・オペラ、バイエルン国立歌劇場をはじめ、世界中の著名な歌劇場で主要な役を演じている。特にヴェルディの作品には欠かせない歌手として、ミラノ・スカラ座ではリッカルド・シャイーの指揮のもと、『マクベス』の主役を含めてこれまでに4回もシーズン・オープニングの舞台に出演している。リッカルド・ムーティ、ズービン・メータ、チョン・ミョンフンをはじめ、巨匠の信頼も厚いイタリアを代表するバリトン歌手。
2022年
9月23日(金・祝) 15:00
9月25日(日) 15:00
会場:東京文化会館(上野)
指揮:フランチェスコ・ランツィロッタ
演奏:東京フィルハーモニー交響楽団
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