2023年3月、日本での最後のコンサートを開催するワルトラウト・マイヤー。ベルリン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場の日本公演に出演を重ねるとともに、リサイタルでもその素晴らしい歌唱でファンを魅了してきました。その期間が1991年の初来日以来、20年におよんでいることに、あらためて驚きを感じます。ワルトラウト・マイヤーの歌手としての偉大さについて、音楽評論家の堀内修さんにご紹介いただきます。
泣かないようにしよう。
でもワーグナーの女王が舞台を去るのだから、泣かずにはいられない。泣くならめそめそでなく、号泣するのが彼女にふさわしいのではないだろうか。ワルトラウト・マイヤーの歌うワーグナーのヒロインに、激しい感情を持たない女はいなかったのだから。
『トリスタンとイゾルデ』第1幕のイゾルデは不機嫌だ。威張っていて、トリスタンに冷たい態度をとる。それがあまりに激しい感情を抑えつけているからなのが、愛の薬を飲んだ時にわかる。その時の思わず後退りしそうなほどの変化を思い出さずにはいられない。
そういう作品なのだから、マイヤーより一時代前の女王ビルギット・ニルソンだって大きく変わった。でもイゾルデの神々しい性格は維持された。マイヤーはあの時イゾルデを神から女に変えたのだった。そしてワーグナーのヒロインたちが神から女へと変わる時代になった。
ならなかったのは《ニーベルングの指環》のブリュンヒルデだけ。メゾ・ソプラノのマイヤーが歌わなかったからだ。『ジークフリート』以外の2つなら歌えるのに、と言ったマイヤーは残念そうだった。でもブリュンヒルデを歌わなかったマイヤーが、ワーグナーの女王になったのだから、驚くべきではないだろうか。
イゾルデの第1幕での劇的変化は、マイヤーの秘術でもあった。『パルジファル』のクンドリーの、第2幕でのキッスはもちろん、ジークリンデでもヴェーヌスでも激しい女が露わになるあの陶酔的な瞬間を、マイヤーは幾度となく実現させてきた。ワーグナーだけではない。さまざまなオペラで。
マイヤーがイゾルデ役を歌った2001年バイエルン国立歌劇場日本公演『トリスタンとイゾルデ』
Photo: Kiyonori Hasegawa
ヴェルディ『ドン・カルロス』のエボリが舞台で2度も劇的な変化をするのを、マイヤーは教えてくれた。驕慢(きょうまん)な美女から傷ついて怒り狂う女へ変わったエボリは、後悔に苛まれる。その変化のなんと激しいことだろう。しかも劇的な変化を、マイヤーは1つのオペラだけでなく、1つのアリアでもやってのける。「呪わしき美貌」で微かな希望を見出して舞い上がるエボリはマイヤーのものだ。
ワーグナーの女王なんて限定してしまうのはまちがいかもしれない。『カヴァレリア・ルスティカーナ』のサントゥッツァだって、男なら震え上がってしまう女だった。あのイゾルデが、すがりつく女として男たちを怖れさせてしまうなんて、思いもよらなかったけれど、サントゥッツァは世界中で、日本でも大成功を収めている。
実をいえば大成功を収めなかった役でもマイヤーは面白い。ちっとも宿命の女っぽくなかったカルメンだ。自然で軽やかで、友達になってリーリャス・パスティアの酒場で一緒に一杯飲みたくなるようなカルメンは成功しなかった。でも、いま思えばあれは先駆的なカルメン像ではなかったろうか。
ドイツ歌曲もオペラの大歌手としてのマイヤーによって歌われるのが明らかだ。すべての詞に意味があり、劇的に歌われる。淡々とした歌い方の歌曲が好きな人はとまどうだろう。シュトラウスは当然としても、シューベルトやブラームスだって、短い歌にこれほどドラマがつまっていたのかと驚かされる。細やかな解釈に精を出せば出すだけ、グレートヒェンの想いや囚われた者の嘆きが浮かび上がる。たとえ言葉の意味が聞き取れなくたって、詞が伝わってきてしまうのがマイヤーの歌曲だった。
1997年のリサイタルより
Photo: Kiyonori Hasegawa
マイヤーは多様な表現が可能な声を持っていた。声の美貌は残念ながら永遠に保つわけにはいかない。本人がそう言うなら、去るべき時がきたのだろう。声と姿の、美しい後姿を記憶にとどめる時だ。ワーグナーの女王というより上演の歴史を一歩先に進めたオペラの名女優の後姿を、涙でなく微笑みで送ることはできないものだろうか。ワルトラウト・マイヤーが歌う。もう1度。
堀内修(音楽評論家)
2023年
3月14日(火)19:00
会場:サントリーホール
ピアノ:ヨーゼフ・ブラインル
共演:サミュエル・ハッセルホルン(バリトン)
S=¥16,000 A=¥14,000 B=¥11,000
C=¥8,000 D=¥7,000 P=¥5,000
U25シート=¥2,500
*ペア割引[S,A,席]あり
※予定される曲目については下記をご覧ください
https://www.nbs.or.jp/stages/2023/waltraud-meier/